こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く171

  

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お世話になっております、シヨウX3です。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

今回は原始謾筆風土年表・資料編から大地震があった象潟(きさかた)のその後を田名部代官所を退役した菊池成章(なりあきら)という人が、文化六年(1809)に長崎からの帰り、日本海側の新潟、酒田などを経由して、象潟に立ち寄って記したものを紹介してみたいと思います。

 

「伊紀農松原」菊池成章著

七月二十三日

(前年九月半ばに田名部を旅立って早十か月余り、善宝寺に立ち寄り、最上川を渡り酒田を経て)例によって浜辺の砂の上を歩きに歩いて汐越の宿場に着いたところ、十三、四歳の少年が宿引きをしているではないか。

「宿は広いのか、他の客と相部屋になったりしないか。もしそうだったなら、せっかくの迎もお断りだぞ」

と冗談めかしてついて行ってみると、狭いうえに泊り客がいっぱい。

(昨夜も周りがうるさくて、ほとんど眠ってないので)

「こりゃ、うだで」

とその宿を離れて蚶満寺に近いところにかっこうの宿を見つける。

主は岡本与兵衛、年配で実直そうな人物だ。

大名行列の本陣にもなりそうな部屋数である。

座敷は広々、相客はない。けれど、我ら三人そんなところに取り残された感じで寂しいくらいだった。

 

七月二十四日 快晴

ここ汐越に宿をとったのは象潟に魅かれたからである。

だから今日はすみずみ見学しようと早朝に宿を出発した。

蚶満寺の門前は広々とした並木道である。

五年前の象潟大地震で、この辺りの村々ばかりか、島は崩れ、水底が陸になり、昔とは風景が違ってしまっている。

お寺も建て替えられてはいるが、まだそこそこである。

干満珠寺の本堂から象潟は庭先のように眺められる。

島々と鳥海山が水辺に映って、かの昔、ここを訪れたあの松尾芭蕉になった気分だ。

八十八潟、九十九森というのもなるほどとうなづける。

大小の島、その数知れず。

その中に能因島、水辺の西行桜、庭には親鸞の腰掛石というものもある。

見渡す限りの絶景、神のなせる業なれば、言葉には言い表せない。

奇々妙々としか言いようがない。

地震の時に陸地となった場所がところどころ田に変わって、その光景もまた趣深い。

松尾芭蕉は、紀行文「奥の細道」に

松島は笑うが如く、象潟は眠るが如し

と記した。

その表現を感慨深く思い起した。

 

道々なごり惜しく振り返ると、鳥海山が富士山のように見えた。

苦労して越してきた大師は鳥海山の土石流によってできた崎なので、大師崎から見た鳥海山は噴火山そのもの。

そら恐ろしく、山の形も見栄えしなかった。

今日ここから見る鳥海山こそこの山の正面、富士山と同じ形だった。

我が国の高山は「一富士、二釈迦、三白山、四鳥海」と言われるけれど、釈迦ヶ嶽も白山も周りに山々がありその中のひとつなので、さほど美しく見えないが、鳥海山は並び立つ山がなく富士山についで美しい山と言えよう。

今回、諸国を旅して九州まで出向き、鹿児島の雲仙、佐賀の霧島山も遠くから眺めたが、この鳥海山に並ぶものはなかった。

ましてや筑紫*1英彦山などは問題にならない。

この鳥海山も大師坂を越えて汐越よりこちら側で見るのが一番良い。

(意訳)

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*1:福岡と大分の県境

源さんが行く170

  

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源さんの記録、文化元年の3回目、象潟(きさかた)大地震についてです。

 

文化元年(1804)の記録・其の参

象潟大地震

■六月四日、出羽の酒田で大地震が発生した。

地面が割れ、泥が湧き、家が崩れ、倉が壊れた。

たくさんの人々が水死した。

日本十二景に数えられる象潟の九十九森、八十八潟は埋まり、名所旧跡も昔話になってしまった。

鶴岡の善宝寺の港にも土砂が溢れ、川上にも幾つもの堰止湖ができたという。

 

資料「日本全史」

出羽で大地震~象潟湖が一晩で消える~

六月四日午後十時頃、由利郡象潟付近を震源とする激しい地震が起こった。

数百もの雷が落ちるような音を合図に始まった地震は大波のうねりのように上下に揺れ、誰もが経験したことのないものであった。

夜間のため逃げようにも歩くこともままならず、多くの人が寝たまま家屋の下敷きとなった。

地面は大きく地割れし、硫黄の匂いのする砂混じりの水が、高い所では九十㌢も吹き上げた。

午後十一時過ぎには雨も降り出し、山鳴りや余震も止まず、人々を不安に陥れた。

さらに地盤の隆起により鳥海山の北西ふもと、日本海に臨む南北五㌔、東西十五㌔の風光明媚な潟、大小の島々が点在し西の松島と呼ばれた象潟湖を一晩で消滅させた。

地震による被害は本荘から鶴岡までの広範囲に及び、死者四百人、全壊家屋八千戸にのぼるとみられる。

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源さんが行く169

  

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源さんの記録、文化元年の2回目です。

 

文化元年(1804)の記録・其の弐

安渡*1でハマグリがたくさんとれ、大畑では一升あたり四文の値段で売られる。 

 

親鸞聖人の五百五十年忌が正教寺で執り行われた。

道路を清め砂利を敷き、花々を飾り、聯額(れんがく)を掲げた。

幕を張り、灯りをかざし、あらん限りの準備をした。

僧侶の後ろに美しく化粧した美少年が花籠*2を持って従った。

ちなみに親鸞聖人がなくなったのは、弘長二年(1262)である。

 

資料「大畑町史」から

この法要に参詣人二千人―正教寺八世義道は内陣(本堂)の荘厳*3を細部にわたって整えた。当時の僧侶としては初めて御伝鈔(ごでんしょう)拝読の資格を得た人であり京都からの帰路には行列を組んで入寺式をするという盛大なものだった。

文化元年、親鸞聖人五百五十回忌の法要を執り行った。その時の繁盛ぶり、「二十五日と二十八日の食事の支度は二千人分だった」と記される。僧侶は、郡内はもとより野辺地、八戸、仙台からも参り、大小の灯籠を寺の内外に配し、石垣の上に二十張りも立てる盛況ぶりだった。

※2008年七月、親鸞聖人七百五十回忌が執り行われました。

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金鳥(こきんちょう)という名の、山鳥より大きい、赤椛色*4の鳥が見世物としてこの町にやって来た。

怒らせると白と赤の斑に変わると宣伝していた。この鳥の羽毛の末は赤く、羽元と羽裏は白らしい。

 

胡錦鳥(コキンチョウ)

スズメ目カエデチョウ科の鳥。小形で、色彩が極めて鮮やかで美しい。オーストラリア原産で、古くから飼鳥とされている。

顔の黒いクロコキン、赤色のアカコキン、橙色のキコキンなど遺伝的異変による色変わりがある。

 

寛政七年(1796)の凶作で死に絶えた家族の年貢十三石分のうち川缺引*5分を除いて八石余りの荒れ地を耕せと、代官所からのお達しである。

お代官や役人がわざわざ大畑にやって来て「耕作せよ」との厳しい指導だ。

とりあえず三年の猶予をいただいて一石に着き銀五匁ずつを上納することとした。

今年がその開墾完了の期限であったが、耕作地は見事によみがえっている。

 

 

 

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*1:あんど=大湊

*2:けこ=散華に用いる花を入れる器

*3:しょうごん=お飾り

*4:かばいろ=赤みを帯びた黄色

*5:かわかけびき=江戸時代、河川の堤防が決壊して田畑の荒廃した時の免租

源さんが行く168

  

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源さんの記録、文化元年に入っていきます。(村林源助/57歳)

サブタイトルにあるようにこの年、源さんは宿老を辞めます。

その話は後々紹介しますが、まずはいろいろな記録から。

 

文化元年(1804)の記録・其の壱

箱館奉行羽太安芸守正養(まさやす)公が四月、江戸からおいでになり、戸川筑前守安論(やすのぶ)公は五月に江戸に戻られた。

いずれも菊池太右衛門の邸で休息し大畑川を渡る時にはフナハシ*1を利用された。 

 

一貫三百匁(もんめ、5.7㌔)から一貫七百匁(6.3㌔)の砲(たま)を打ちこめる大筒八挺(ちょう)が船で大坂から届いた。

幕臣戸田又太夫が乗船して兵具(ひょうぐ)長持十余挺が江戸から届いた。

幕臣長嶋新左衛門は佐井から箱館に渡った。

 

蝦夷地の地理に詳しい間宮林蔵と馬場官蔵による軍学講が箱館で行われた。

 

四月、大赤川から下風呂の境滝までを赤川と下風呂の両村が一緒になって道普請*2をおこなった。関司*3は堺門蔵。

 

正津川に落雷があり、杉の木が真っ二つに裂けて砕けた。

 

 禅宗の湊の清兵衛の家へ浄土宗の仁太郎が養子に入ったのは、六年も前の寛政十二年(1798)のことである。

それが今年になって訴えが提出され、すでに数か月。

寛政の初めの頃(1789~)、心光寺の住職と檀家の衆との間に何があったのか。

これといった理由もなくただ寺に対する信仰が薄いと檀家の証明である寺請印を出さなかったらしい。それで訴え出たのだという。

心光寺の檀家のだれかれとなく寺請印を出されなかった中の一人らしい。

そういう者たちが役所に呼び出されたため、

「もしや邪宗キリスト教)調べではないのか」とみんなが騒ぎ始めたため、大事になるのを嫌って寺請状はすぐに発行された。

ところで、寺請状は明和の頃(1764~72)までは毎年更新が行われていた。

その後は宗門人別帳*4に宗派を記入して、毎年チェックしていた。

ここ十年は寺請印は必要なくなった。

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第十集の最初から読みたい方は

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第十一集最初から読みたい方は

源さんが行く160 - こめいがねんど

*1:舟を何艘も並べて橋をつくる

*2:みちふぜん=道路補修工事

*3:あずかり=担当

*4:村ごとに宗門改めの結果を記した帳簿。後には人別帳を兼ね、一戸ごとに戸主、家族、奉公人の名前・年齢・宗旨・檀那寺などを記載し、戸籍簿の役割も果たした

おおはたまちができるまで~南部のはなし~86

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南部のはなし86、合戦は終わり…。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

顕家・師行の戦死4

 わずか九か月前、京都の奪回を夢見て顕家に従った十万の兵は、ついに望みも空しく、遠い異郷の地で全滅してしまいました。

 

 顕家の父、親房は吉野にいて、顕家戦死の報を聞き、

さきだてし心もよしや中々に うき世のことも思いわすれて

と詠んでいます。

忠義の心一筋に浮世のことなど考える暇もなく、戦場の露と消えた顕家の気持ちが親房としては哀れでならなかったのでしょう。

 

 顕家の母*1は顕家の死後、河内の観心寺に入って尼になりました。

そむきてもなお忘られぬ面影は うき世の外のものやあらん

今はすでに手も届かないあの世の人となったわが子の面影を、どうして忘れることができるだろうか。

また顕家の死後三年経ってから、この母が戦死した場所を訪ねました。

しかし悲しみのあまり、草の上に倒れ伏してしまったということです。

亡き人の形見の野辺の草枕 夢も昔の袖のしら露

母としては、まだこれからという二十一歳の若さで亡くなったわが子のことを思うと、見栄も外聞もなく、ただ草の上に泣き伏すだけの悲しさであったのでしょう。

 でも歌を詠む術は知らなくても、遠い異郷の地に、わが子やわが夫を失った十万の兵たちの家族も、決してこの母に劣らない悲しみに耐えていたに違いありません。

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 北畠顕家の功績をたたえるために、今大阪市阿倍野区北畠三丁目七の二〇阿倍野神社が祭られています。

そして本殿の傍らには功の宮と呼ばれる社もあります。

この社には南部師行をはじめ、阿倍野付近で戦死を遂げた多くの将兵の霊が祭られています。

 また堺市石津川のほとりには、顕家・師行および戦死者供養のための五輪塔が立てられています。

南北朝時代の哀史を知る人々は、この五輪塔やお宮を建てて、これらの人々の霊を慰めないではいられなかったのでしょう。

 

 男山八幡宮石清水八幡宮)に立てこもっていた春日顕国の奮戦も、それから一月半ほどの後、七月上旬までには終わっています。

顕国は奥州に逃れたといわれています。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

 つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

*1:日野中納言資朝(すけとも)の娘

おおはたまちができるまで~南部のはなし~85

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南部のはなし85、顕家の最後を知った、師行は…。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

顕家・師行の戦死3

 顕家の最後を知らされた南部師行はどうしたのでしょう。

 「顕家卿がお果てなされたうえは万事は終わった。この上は心置きなく死ぬまでだ。」と傍らにいた西沢に命じて兵を集めさせた。

集まった者は西沢行広以下百八人。(四十二名の名が記録されている。)

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 師行は一同に去年以来の労をねぎらい、顕家卿の死を知らせて、

もはや生命を惜しむ要はない。もう一息も見ぬいて将軍のお供仕ろう。

と主従一団となって敵陣めがけて突進し、大乱闘のうちに力尽きて全滅したのである。

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下村氏によると

「南部師行公がもし一方の血路を開いて、本国に引き上げる意思があったなら、あるいは帰れたものを、節を守り、最後まで生き残った百八名と共に、顕家公に殉じたことは、まさに武士道の鑑である。」

と言っています。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

 つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~84

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南部のはなし84、顕家最後の時を迎えます。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

顕家・師行の戦死2

 それからわずか一週間後に、いよいよ顕家最後の戦いが行われました。

大阪府の下村清治郎氏はその最後の模様について、次のように書いています。

 延元三年五月二十二日、決死の興奮に躍る官軍が、堺浦に陣をとる高師直一万八千に向かって突撃を敢行したのである。

太刀をふり、薙刀をしごき、鬨の声を上げて突進した。

無二無三に猛撃、乱刃、血の雨を降らせて斬りまくった。

だが斬れども突けども敵は大軍、新手を入れかえ入れかえて立ち向かってくる。

味方はこの奮闘に三人傷つき、五人討たれて今は残り少なくなった。

 この数度の合戦に南部師行はすでに傷を負うたが、少しも屈せず𠮟咤憤激、血刀を打ち振り打ち振り駆け回った。

と見て駆け寄った賊五六人、師行を囲んで躍りかかった。

大将危うしと見て西沢行広とその郎党二人が駆けつけたちまち賊を斬り倒した。

 

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 主従四人ほっと息をつくところへ、伝令が馬を飛ばせて来た。

「顕家卿には流れ矢におあたりなされて…」

「ご最後か」

「はい。」

これが顕家戦死の知らせである。

あまりにもあっけないほど分からない最後の模様であるが、それは本陣近くにいた者が全滅したため、真相が伝わらないのであろう。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

 つづく

 

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アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

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おおはたまちができるまで~南部のはなし~83

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南部のはなし83、ここからは正直進めていきたくありませんが、

顕家と尊氏の決着が着きます。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

顕家・師行の戦死1

 顕家が天王寺を占領したといっても、わずか一週間足らずでした。

三月十四日にはもう高師直(こうのもろなお)天王寺に到着、その日のうちに攻撃を始めました。

三扇昔話」にはその兵力について

師直の勢一万余にして、味方は三千に過ぎず

と書かれています。

三分の一にも満たない少軍勢で大敵にあたったのです。

戦いは十四日から十六日まで続けられましたが、大軍のために次第に押されて、戦線は天王寺から次第に南の阿倍野方面にまで移されました。

 そこで天皇はさっそく九州の宇治維時(これとき)に勅命を下し、顕家を援助するよう再三命じましたが、援軍はただの一騎も来ませんでした。

 

 五月六日には和泉の観音寺(和泉市の南)に城を築いて、堺浦の足利軍を攻めました。しかし高師行は間もなく新手の大軍を率いて堺浦に到着、それからは文字通りの死闘が続けられました。

 

 さすがの顕家もこの大軍を目の前にして、自分の運命もこれまでと思ったのでしょう。

激戦の間のわずかな暇を見つけて、六か条の政治改革案を書き上げ、五月十五日に天皇に上奏をしました。

建武の新政が何故二年足らずで終わってしまったのか」また

「これからの政治はどう改むべきか」など

顕家は率直に自分の意見を天皇に申し上げました。

そしてその文の最後に

「もしこの言葉をお取り上げいただかなければ、天下の平和は望めないので、わたくしは山の中にでも隠れ住みたい気持ちです。」

と書いて上奏文を終わっています。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく

 

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南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1