おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
さて、歴史は鎌倉幕府成立まで進みました。
ここで話を蓬田村が属する津軽エリアから、大畑町が属する南部エリアに移して進めていきたいと思います。
先ずはプロローグとして、初代・光行(みつゆき)が当時の糠部(ぬかのぶ)地方に初めて来たあたりから始めたいと思います。
初代・光行の奥州下向
建久二年(1191)十二月二十八日、甲斐(山梨県)南部郷・領主、光行一行が、長い船旅を終えて、ようやく糠部の八戸浦に到着しました。
光行は甲斐源氏の一族で、南部郷を領地としていたので、南部氏を名乗っていました。
文治五年(1189)奥州藤原との合戦の際、光行が阿津賀志山(あつかしやま)の戦いで手柄を立てたことにより、源頼朝から奥州糠部の地を賜りました。
頼朝は、馬の飼育には豊かな経験を持つ光行を馬産地糠部の領主に選んだと言われています。
その二年後の十月、部下七十三名をひきいて、六艘の船に分乗して、鎌倉の由比が浜を船出。途中大嵐にあったりして、二か月以上かけてようやく糠部に到着したのでした。
八戸浦はまだ蝦夷地と言われていたころで、遠くにわら屋根がポツポツと見えるくらいで、砂浜の向こうには、一面に枯れ草が生え茂っている荒れ地だったといいます。
なので山国育ちの部下たちは、想像していた糠部の地との違いに意気が下がる一方でした。
ただ光行だけは、この広々とした原野が、馬を育てるのには最適な場所であることが分かっていて、笑みさえ浮かべていました。
八戸に上陸した一行は、光行が部下たちを励まし続けながら、やっと川のそばにある小道を探し当て、そこから川沿いに西へ西へと歩き進めました。
そして、やがて日が暮れる頃、ようやく道端にある小さな祠を見つけて、そこで一夜を明かしました。
その祠というのは、今の三戸郡南部町の相内(あいない)にある観音堂(正継山円通寺)であったと言われています。
お宮があるくらいなので、近くには何軒かの民家もありました。
翌二十九日には、物珍しげに、村人たちがたくさん集まってきました。
言葉はよく通じませんでしたが、どうやらこれからこの辺りの領主になる南部という武士の一行であることが村人にもわかりました。
ビックリした村の先だちたちが、大急ぎで使いを走らせ、それから田子村の郷士*1田子丹波の家に一行を案内しました。
光行たちは丹波の家に移り、部下たちも近くの民家に宿をとることにしました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~2 - こめいがねんど
へづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
*1:ごうし=地方にいる武士