こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~82

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし82、河内に逃げた顕家はどう動いていくのでしょうか。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

天王寺・男山の合戦

 河内に逃れた顕家は、生き残った奥州軍に河内や摂津の南朝軍を合わせ、なおも京都に迫ろうとしました。

河内に来てからわずか一週間目の三月八日に、天王寺に陣を敷いている細川顕氏(あきうじ)勢を攻めています。

南河内の石川河原で両軍が戦いましたが、細川勢は顕家軍に散々破られて、雨の中を京都に逃げ帰りました。

この細川勢というのは、前年の十二月に楠木一族に備えて天王寺を守っていたものです。

 

 天王寺を占領した顕家は、さらに同族の日顕(あきくに)を先発隊とし、三月十三日にはもう京都を目の下に臨む男山八幡宮*1にまで兵を進めました。

 

 奈良で大勝をあげて油断をしていた足利方は、これを聞いてどんなに驚いたかしれません。

「官務記」には

京中の動乱左右する能わず(どうしたらよいかわからない)恐怖極まりなきものなり

 と書かれています。

 

 慌てた足利方では、早速三月九日足利直義(尊氏の弟)自ら大軍を率いて、京都の町はずれ東寺に陣を敷きました。

そして猛将といわれた高師直(こうのもろなお)を男山に向かわせています。

師直は大軍で男山を包囲させ、それから自分は天王寺に向かいました。

日顕国に背後から攻められることを恐れたのです。

 

 ちょうどそのころ新田義貞は越前(福井県)の杣山(そまやま)城にいたので、天皇は義貞に使いをやり、顕家と南北から京都を挟撃するよう命令を下しました。

勅書*2をいただいて感激した義貞は、早速弟の脇屋義助を京都に向けて出発させました。

しかしその兵力は少なく、途中には多くの足利勢もいたので、ついに京都の挟撃はなりませんでした。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

*1:海抜一四三㍍、山頂に石清水八幡宮がある

*2:天皇からの文書

おおはたまちができるまで~南部のはなし~81

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし81、青野原での第一戦を勝利した顕家軍はどう動いていくのでしょうか。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

奈良への転進

 青野原での第一戦を勝利した顕家はどう考えていたのでしょうか。

この第二線突破を避けて、垂井から方向を変えて伊勢路に入り、伊賀を越えて奈良に出る作戦をとりました。

この作戦変更が実は奥州軍にとっては最も不幸な運命を強いられる結果になったのです。

 

どうしてそれでは顕家が途中で作戦を変えたのでしょうか。

それにはいろいろな説がありますが、やはり顕家は第二線突破のために、これ以上味方から多くの犠牲者を出したくなかったのではないでしょうか。

進路を変えるにしても伊勢路ではなく北上をして新田義貞の軍と合流し、京都を攻める方法もあったのです。

でも当時の歴史書太平記」の作者は、その進路をとると、義貞が京都攻撃の第一の功労者となり、再び義貞による武家政治の時代が始まる心配があるので、それを顕家が嫌ったのではないかといっています。

また北条時行も従軍していましたが、新田義貞は、父・高時を殺した親の仇でもあるので、時行は義貞に味方をして、ともに戦をすることに反対したのではないかともいわれています。

 

それに戦場が京都に近い美濃なので、敵は次々に新しい軍を派遣することができます。

顕家としては第二線を突破して京都に迫ることは困難であると判断したのかもしれません。

それよりは奈良で勢力を回復して、一気に京都に攻め上ろうと考えたのではないでしょうか。

ただ伊勢路を通ると戦わずして奈良に着けると考えたのは、確かに誤った判断であったようです。

その伊勢路にも実は多くの北朝勢が待ち受けていました。

転進を始めてから奈良に着くまでには二十日ぐらいもかかっています。

その間に何回となく敵方の反撃を受けています。

 

ようやく奈良に着いた時には、すでに京都から高師直・高師冬、今川・上杉らの大軍が奈良に着いていました。

この大軍と二月二十八日に般若坂で戦いましたが、何しろ顕家軍は長い行軍と途中の激戦で人馬共に疲れきっています。

第一陣から第二陣までも敗れて遂に顕家は楠木一族の根拠地・河内の国(大阪府)に逃れました。

 

これでこれまで顕家と行動を共にしてきた義良親王は、結城宗宏に守られて吉野に逃れたということです。

またこの時南部氏宗家の十一代伊予守信長も親王のお供をして吉野に参上したといわれています。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

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つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~80

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし80、快進撃を続ける顕家率いる奥州軍と足利軍の天下分け目の一戦が始まります。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

青野原の戦い

 さて奥州軍が来ると聞いた尊氏は、琵琶湖の東青野原(あおのはら、岐阜県不破郡垂井町付近)に強力な足利軍を配置して防衛の陣を敷いていました。

青野原というのは、後に徳川家康石田三成が天下分け目の決戦をしたあの関ヶ原のことです。

南北朝時代にもこの青野原の戦いは、奥州軍と足利軍との勝敗を分ける決戦場になったのです。

兵の数では顕家軍の方は足利方よりはるかに優勢であったといわれています。

ただ鎌倉で敗れた千寿丸(義詮)配下の軍が、その後再び鎌倉に集まって、顕家軍の背後から追撃してきていました。

戦場間近になると、奥州軍は両面から挟み討ちをされる危険があります。

そこで顕家は、青野原の手前の赤坂あたりから急に向きをかえ、約十二㌖ほど引き返して、今の揖斐川を前にして、先ず迫ってきた鎌倉軍を壊滅しました。

それから顕家は再び青野原に向かい、いよいよ天下分け目の戦が始まります。

 

 この激戦は延元三年(1338)一月二十四日から五日間続けられましたが、奥州軍の各隊はついに敵の第一線(高師冬、土岐頼遠今川範国の各軍)を打ち破りました。

このとき、南部師行は結城宗宏と共に、敵の今川範国隊を足近(あちか)川にまで追いつめ、対岸に追い払ったということです。

青野原での第一戦は一方的に奥州軍の勝利に終わりました。

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 しかし足利方では、青野原西方の黒地川(現在不明)の東岸に、第二線として強力な背水の陣を敷いて待っていました。

この第二陣さえ突破すれば、あとはもう京都に迫るだけです。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~79

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし79、顕家に率いられた奥州軍が西上していきます。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

奥州軍の追撃

 顕家に率いられた十万余騎の奥州軍は、白河を越えて関東に入りましたが、下野(栃木県)の小山城攻略に以外の日数がかかりました。

城主の小山朝郷(ともさと)*1は、鎌倉初期以来栄えてきた関東の名城です。

十三昼夜に渡る激戦の末、十二月八日ようやく落城し朝郷は捕らえられました。

 

 奥州軍の次の目標は足利方最大の根拠地鎌倉です。

鎌倉には尊氏の子、千寿丸*2と、奥州管領斯波(しば)家長が補佐役として守っています。

家長は武蔵(東京都)、相模(神奈川県)の兵八万騎を集め、利根川の線で防ごうと陣を構えていました。

川を挟んでの対戦となりましたが、足利方は意外にもろく、十二月十三日、わずか一日の戦いで敗れ鎌倉に退きました

大勝を得た顕家軍は、武蔵の国府東京都府中市)で五日間滞在し兵を休めました。

その間に顕家の勝利を聞いた宇都宮の豪族・宇都宮公綱(きんつな)が千余騎を率いて駆けつけてきました。

また上野(こうづけ、群馬県)の新田一族も、義貞の次男・義興(よしおき、二歳)をたてて、鎌倉を目指して南下してきます。

さらに先の「中先代の乱」で敗れた北条時行も、その後天皇の御許しを得て官軍方に加わり、伊豆から五千余騎を率いて、顕家の鎌倉攻めに参加をしてきました。

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 こうして十二月二十三日、奥州軍の他に北条、宇都宮の各軍も加わり、三方から一斉に鎌倉に攻め入ったのです。

激戦は二十四日、二十五日の二日間行われ、各方面で足利方が敗れ、これまで顕家の好敵手であった斯波家長は自殺し、総大将の千寿丸も三浦半島に逃げこみました。

 

 顕家軍は、鎌倉で延元三年(1338)の正月を迎えましたが、休む暇もなく二日にはもう鎌倉を出発しています。

それから後、美濃(岐阜県南部)までの進軍は記録的な早さだったといわれています。

途中には駿河静岡県東部)に石塔氏、遠江(とおとおみ、静岡県西部)に今川氏、三河(愛知県東部)には氏などの足利軍がいて攻撃を受けましたが、それらを破ってわずか二十日余で美濃の国に着きました。

この快速ぶりは、これまでの例(義貞・尊氏)に比べても驚くべき速さだということです。

この快進撃は、何といっても東北産の駿馬*3にまたがる騎馬軍の突進によるものではないかと言われています。

怒涛のような勢いで京都を目指し進撃を続けたのでしょう。

この奥州軍には徒士*4がなく、すべて馬を使った騎馬軍団ばかりだったようです。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

*1:藤原秀郷の護衛と言われ、五戸木村氏の先祖

*2:八歳、後の義詮(よしあきら)

*3:良い馬

*4:かちへい=歩兵

おおはたまちができるまで~南部のはなし~78

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし78です。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

師行の遺訓

 顕家の国代を勤めていた師行ですから、中央情勢もある程度わかっていたと思われます。

多賀の国府さえ守り切れない東北の南朝軍が、たとえ西上はしても今度の戦こそは最後の奉公になるであろうと、師行は覚悟をしていたのでしょう。

根城の出発にあたって、あとに残る養子の政長、孫の信政に我が身亡き後の遺訓(教え)を残しています。

 我々この度の上洛は必死の対戦になるだろう。

もし私が討ち死にをしたと聞いたら、不義に下らなかったと喜んでくれ。

くれぐれも浅はかな考えを持ってはならない。

一人でも生き残る者があるうちは君のためよく仕え、義を変えてはならない。

私が官軍に味方をして以来、数十ヵ所の領地を賜り、身に余る大役を仰せつかったのは、これみな天皇の御厚恩と、顕家郷のお指示によるものである。

どうしたらこの御恩に報いることができるだろうか。

この天皇の意に逆らう尊氏に味方し、天皇に弓を引くようなことがあってはならない。

一時の栄華は衰えることがあっても、忠義の武名は末代まで朽ちることはない。

快楽や奢りを得ようとすれば、ついには敵に下り不忠をなして、先祖の名を汚すことになろう。

君のお役に立つには家来が無くてはならない。

家来に接するにはわが子を愛するごとくにせよ。

 

そして師行はこの遺訓の最後に、宗家の十一代信長の事についても言い残しています。

 

 さてまた嫡家*1の伊予守殿(信長)は、宮方へ味方なされて、本領を安堵されたことは幸いである。

だが尊氏が天下を取って、私が死んだ後、その方たちは世の行く末をよく見極めて、宗家に力を貸して、尊氏によく尽くせるようにせよ。

 

この宗家についての遺訓は今後の根城南部氏にとってなかなか大切なことを伝えています。

師行はいつかは必ず南朝が衰えて、北朝の世になることを予想していたようです

そういう時世になったとき根城南部氏が、どのようにすればよいか、後々のために政長たちによくその道を諭しています。

 

 我が家の子孫はたとえどのようなことがあっても、天皇に弓を引くようなことがあってはならない。

 

と、堅く南朝支持を命じ、ただし

 

 宗家は北朝に仕えることになるだろうから、その時は力を貸して、南部氏が長く栄えるようにせよ。

 

と言い残したのです。

もともと師行は宗家の出身で、分家の後を継いだ人なので、根城南部氏のことだけでなく、宗家の将来にまで細かく気を配っていたのでしょう。

 

 この師行の遺訓は、その後も数代固く守られて、宗家と分家はたとえ敵味方の関係になっても、直接戦を交えることはなく、互いに助け合いながら南部氏はともに長く栄えることになります。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

f:id:komeikanendo:20210609043443j:plain つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

*1:ちゃっけ=本家

おおはたまちができるまで~南部のはなし~77

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし77です。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

 第二回奥州軍の西上(2)

 その霊山をまた国府に入った奥州総大将・石堂義房(よしふさ)や佐竹義篤(よしあつ)、相馬親胤(ちかたね)らの大軍が包囲をして、全く動きがとれない状態でした。

 しかしその時調度、折も良く、越前福井県にいた新田義貞が勢いを盛り返したという情報が奥州にも伝えられてきました。

それによって足利方が、どういう判断だったのか、急に囲みを解いてそれぞれ兵を引き上げてしまいます

この機会を顕家が逃すはずはありません。

さっそく奥州の南朝勢に呼びかけ、西上のための兵を募りました。

この命に応じて集まってきたのは結城宗宏伊達行朝をはじめ、糠部の南部師行南部伊予守信長津軽工藤貞行紫波郡下山、桃生(ものう)郡の葛西清定、亘理(わたり)郡の武石高広阿曽沼朝綱(ともつな)など約三万騎でした。

顕家は直ちに霊山を下り西上をはじめましたが、その途中からも多くの兵が加わり、白河の関を越える頃には、十万余騎の大軍になったということです。

 

 これまで顕家の国宣(こくせん)により領土を安堵された武将たちが、みな自分の領土を守るために、この西上軍に参加をしたのでしょう。

しかし中央では足利軍の勢いが強く、果たしてこの戦に勝てるか、そして生きて再び郷里の土を踏めるのか、全く予想がつきません。

従軍した将兵には誰にも皆、そういう不安が胸の内にあったと思われます。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~76

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし~南北朝編~を再開いたします。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

 第二回奥州軍の西上(1)

 北畠顕家が多賀の国府に帰った頃、すでに尊氏は京都に入っていました。

その情報が次々と伝えられてきて、奥州でも北朝側の勢いがますます盛んになり、顕家もだんだん多賀を守り切ることが難しくなってきました。

 それでも顕家は建武三年(1336)十一月十五日南部政長に次のような手紙を送っています。

国府は大丈夫だから、お前は中央の情報に惑わされることなく、糠部をしっかり守るようにせよ」と。

しかし天皇が吉野に移られたので、尊氏に味方をする者がさらに多くなり、さすがの顕家も国府を守り切れなくなりました。

 

 翌延元二年建武四年/1337)一月八日義良(のりよし)親王を奉じて、結城・伊達勢に守られながら、多賀から南約九十㌖もある伊達郡霊山(りょくぜん/福島市東約十二、三㌖)に顕家は移ります。

伊達郡は伊達行朝の領地で、霊山は深い谷や断崖絶壁に覆われて、守りやすく攻めにくい天然の要塞でした。

山頂には霊山寺があり、千人を超える僧兵に守られています

その上近くには、南朝に属する十以上の支城もあり、攻撃に対してはまずこれ以上堅固な場所はありません。

しかし顕家としては自分たちの安全ばかりを考えているわけにもいきません。

 

 移って間もない一月二十五日に早くも天皇からの御命令・綸旨(りんじ)が届けられます。

中央の事情を細かく述べた後「急ぎ東国の兵を率いて京都を回復せよ」という御命令でした。

 しかしその後の霊山もまた容易でない状態が続いていました。

支城のひとつである熊野堂城(中村町)が相馬胤頼(たねより)により攻め落とされ、さらに信夫郡の荒井城霊山町北部)、小手保(こてほ)伊達郡の河俣(かわまた)(川俣町)も落城して、霊山は手足をもがれた裸の城同様になっていました。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

おおはたまちができるまで再開にあたって

 

 

お世話になっております、シヨウx3です。

 

 ひさしぶりに再開します「おおはたまち(よもぎたむら)ができるまで」

どういう歴史があってむつ市大畑町(奥さんの実家)、東津軽郡蓬田村(私の実家)になっていったかをテーマに、古代から辿っている気の遠くなるような大ロマンヒストリー(そんなたいそうなものでもないですけど)です。

 

何十万年も前はアジア大陸と陸続きで、下北半島から11~12万年前のナウマン象の化石が発掘されたことから始まって、

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

 

元々は同じ人種だったのが、邪馬台国ができて、中国から文化を取り入れるなどして西日本を中心に栄えだし、東北や北海道は野蛮人とみなされ、和人と区別され始める。

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

 

やがて倭の国は理不尽に領土を広げていき、蝦夷エミシ)と貶められた私たち東北の人達は反乱を起します。

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

 

いろいろな戦を繰り返し、平安時代、平泉に奥州藤原家の一大勢力が誕生します。

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

 

しかしその奥州藤原氏源頼朝により滅ぼされて、鎌倉幕府が始まります。

このとき今の南部地方の領地を与えられたのが、頼朝と同じ源氏系列の甲斐の国の南部光行でした。

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

その南部のはなしも回を重ねて75回まで進み、

鎌倉幕府も亡び、南北朝時代へ突入しております。

おおはたまちができるまで~南部のはなし~75

 

南部のはなし76回以降は(ザックリと言えば)、

足利尊氏vs後醍醐天皇側の北畠顕家+南部家の戦の続きとなります。

 

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ひきつづきおおはたまち(よもぎたむら)ができるまでを楽しんでもらえたらありがたいです!