こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~82

f:id:komeikanendo:20210609231007j:plain


お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし82、河内に逃げた顕家はどう動いていくのでしょうか。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

天王寺・男山の合戦

 河内に逃れた顕家は、生き残った奥州軍に河内や摂津の南朝軍を合わせ、なおも京都に迫ろうとしました。

河内に来てからわずか一週間目の三月八日に、天王寺に陣を敷いている細川顕氏(あきうじ)勢を攻めています。

南河内の石川河原で両軍が戦いましたが、細川勢は顕家軍に散々破られて、雨の中を京都に逃げ帰りました。

この細川勢というのは、前年の十二月に楠木一族に備えて天王寺を守っていたものです。

 

 天王寺を占領した顕家は、さらに同族の日顕(あきくに)を先発隊とし、三月十三日にはもう京都を目の下に臨む男山八幡宮*1にまで兵を進めました。

 

 奈良で大勝をあげて油断をしていた足利方は、これを聞いてどんなに驚いたかしれません。

「官務記」には

京中の動乱左右する能わず(どうしたらよいかわからない)恐怖極まりなきものなり

 と書かれています。

 

 慌てた足利方では、早速三月九日足利直義(尊氏の弟)自ら大軍を率いて、京都の町はずれ東寺に陣を敷きました。

そして猛将といわれた高師直(こうのもろなお)を男山に向かわせています。

師直は大軍で男山を包囲させ、それから自分は天王寺に向かいました。

日顕国に背後から攻められることを恐れたのです。

 

 ちょうどそのころ新田義貞は越前(福井県)の杣山(そまやま)城にいたので、天皇は義貞に使いをやり、顕家と南北から京都を挟撃するよう命令を下しました。

勅書*2をいただいて感激した義貞は、早速弟の脇屋義助を京都に向けて出発させました。

しかしその兵力は少なく、途中には多くの足利勢もいたので、ついに京都の挟撃はなりませんでした。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

f:id:komeikanendo:20210614012315j:plain


 つづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

*1:海抜一四三㍍、山頂に石清水八幡宮がある

*2:天皇からの文書