こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~75

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南北朝時代の南部氏と北畠顕家のはなし、その8です。

 

 根城南部氏五代の誠忠

南北朝の対立(2)

北条高時と同じように足利尊氏もまた、比叡山天皇がいるにもかまわず、延元元年(1336)八月十五日に光厳上皇の弟・豊仁親王皇位につけ、光明天皇と称させました。

だからその頃の日本には、二人の天皇がいたことになります。

天皇が変わるとたいてい年号も一緒に変わります。

南朝では延元元年八月十五日といいましたが、北朝では再び前の建武を用いて、同じ日を建武三年八月十五日といっていました。

しかし何といっても三種の神器後醍醐天皇が持っているので、尊氏はたいへんそれが気がかりであったようです。

それで尊氏は使いをやって、天皇に講和を申し入れました。

天皇にはまたいろいろな考えがあったのでしょう、簡単にその申し入れを承知しました。(一説ではその時、尊氏が南朝に降伏したともいわれています。)

講和が成立したので尊氏は迎えをやり、天皇は京都に帰りました。

そして建武三年十一月二日には無理にお願いをして、神器引き渡しの式が行われました。

天皇は前からいつかはこういう事もあるだろうと予測をしていたのでしょう、あらかじめ偽の神器を用意していました。

引き渡しをした神器は、その偽物であったといわれています。

尊氏たちはもちろんそれを知らずに、盛大に光明天皇即位式を行いました。

こうして神器さえ渡してもらえば、その後はもう用のない後醍醐天皇です。

こともあろうに天皇を花山院の一室に閉じ込めて厳重な見張りをつけておきました。

天皇は尊氏のために軟禁状態にされてしまったのです。

 

こうして天皇は二か月余り寂しく暮らしていました。

しかしそのうちに密かに北畠親房からの連絡もあり、楠木一族の案内で十二月二十一日の夜、花山院から抜け出して吉野の吉水院に移りました。

そしていよいよ吉野の後醍醐天皇と、京都の光明天皇との二人の天皇時代がはじまることになります。

京都は吉野の北にあたるので、武家方の朝廷を北朝といい、吉野の朝廷は南朝といって、南北朝の対立が、その後五十六年間(光厳院の時からだと六十一年間)も続きました。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく 

 

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