こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村の歴史や文化、たまに趣味のねんど作品を紹介する雑記ブログ

源さんが行く15

 

f:id:komeikanendo:20190913232457j:plain

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明七年(1787年)の記録・其の弐

河源(かわかみ)堰が塞がった。

邪魔な木材を取り除く作業で、犠牲者が出て、日数もかなり費やすことになった。

そこで沢田平作が考え出したのが、川をせき止めて、一気にこれを破り流すという方法であった。

水は勢いよく流れ出し、滝の中段や滝壺にひっかかり、ふさいでいた材木を押し流して、さらにそれらの材木の力によって堰をふさいでいる材木も一気に流すというやり方だ。

 

安永末から寛政の初めにかけて十四、五年間に他国から往来した人たちも含めて、大畑で医術に関わっていた人間は槙宗設にはじまり山屋了乙まで25人もいたとは驚き!

 

江戸の材木商、伊勢屋伊兵衛の支配人、山田理兵衛は、三、四年前から大畑に来ている。

その代理人の金子孫兵衛は将棋初段。

 

箱館の大夫*1松前監物が、岡本長助と名を偽って、佐井から船で江戸、大坂方面に渡航

 

瘟液*2が流行。

崇神(すじん)天皇の時代、この病気が流行し、その半数が死んだ。

 

雲水(旅の僧)の弄水(ろうすい)という者が、正教寺で行った正信偈*3の説法は、しばらしいものだった。

 

江戸の竹本枝太夫が来た。

 

f:id:komeikanendo:20190916135416j:plain

鶴岡山形県善宝寺の僧を招き、大畑川の河口の水深をもっと深くしようと船を沖に漕ぎ出し、海の上で祈祷を行った。

結果なんと水かさが増し、川水の流れがよくなった。

周辺の山々の木々の成長、繁茂と大いに関連して水かさが増したということだろうか。

 

  

 今回はここまでです。

 前回、政府のことだけだったので、今回はズラーっと大畑のエピソードを並べてみましたが、天災に関してのエピソードが多いように思います。

次回も天災エピソードがつづきます。

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

*1:たいふ=家老

*2:おんえき=一時的にはやる伝染病

*3:しょうしんげ=親鸞の「教行信証」の行巻末尾にある七言百二十句の偈文。弥陀・釈尊・三国七祖の教えた念仏を正信すべき事を述べる。浄土真宗で朝夕の勤行に和讃とともに読誦する

源さんが行く14

【17日9:59まで5倍】【海峡サーモン 】特選切身セット8切セット(西京味噌漬、吟醸粕漬、塩麹漬、甘塩味)【北彩屋】【のし対応可】

価格:4,136円
(2019/9/14 17:51時点)
感想(0件)

f:id:komeikanendo:20190913232457j:plain

 

「がんじょう」と言うのは「丈夫」という言葉の方言かと思っていたら、

甲斐*1の辺りでも言うらしい。

「まんざら」と言うのは「あながち」という言葉の方言かと思っていたら、

紀伊*2の辺りでも言うらしい。

今年、盛岡から来た客の一人が、この両方とも使っているのを聞いたから、

昔からの言葉なのか。

この地方だけの言葉ではなさそうだ。

かまえてあじゃら!(※源さんのジョーク)

 

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明七年(1787年)の記録・其の壱

村林源助 40歳・宿老

 ■徳川十一代・源・家斉(いえなり)大将軍、宣下*3

 

 徳川家斉の将軍在職期間は1787~1837年の50年にわたります。

将軍になってからは老中・田沼意次を排し、白河城主・松平定信を老中首座に抜擢して、寛政の改革を行いました。

松平定信の引退後は親政*4を行い、

いわゆる文化文政時代を出現。

側室四十人、子女五十五人、大奥の豪奢は最高潮に達しました。

ワイロが横行し、幕政は腐敗、敗政は窮乏化しました。【シャープ電子辞典】

 

■奥州白川藩主の松平定信候が、将軍補佐役の大老に昇格。

 

 弱冠十五歳の徳川家斉が朝廷から征夷大将軍の宣下をうけ、第十一代将軍に就任。

家斉は御三卿の一つ、一橋治済(はるさだ)の長男。

1781年、世継ぎのなかった第十代家治の養子となっています。

前年の田沼意次失脚後も、大老井伊直幸(なおひで)、老中の松平康福(やすよし)、水野忠友ら田沼派がなお幕閣内にありました。

 徳川御三家の一橋家ほか「反田沼派」の譜代大名等は、齢三十ながら血筋資質と申し分ない白川藩主を老中、さらには将軍補佐役にしようと画策していました。

反田沼派にとっては、この家斉の将軍就任が追い風となってくれることが期待されました。

家斉はこののち1837年まで最長の五十年間在位。1827年には最高位官の太政大臣に進み、将軍職を退いた後も大御所として実権を握り、なお君臨します。

 

 六月十九日、松平定信が、御三家と将軍家斉の実父の一橋治済の推薦を受け、三十歳で老中首座に就任。

五月の江戸での「打ち壊し」*5の責任をとって、田沼派の将軍側近の御側御用取次・横田準松(のりとし)らが解任され、松平の老中就任が実現。

世間でも、この「打ち壊し」がなければ側近政治も改まらなかっただろうと噂し、

「文武両道左衛門源世直」(みなもとのよなおし)

松平定信を称し、大いに期待したそうです。

【日本全史】

 

f:id:komeikanendo:20190914174510j:plain

 

 以上、天明七年最初の記録になります。

源さんの記録にしたら、たった2,3行の記述になりますが、

(出だしの方言エピソードは省きます)

意訳の佐藤ミドリ先生に倣って、政治の大変革を詳しく載せました。

 

よく参考にさせてもらっている逆説の日本史の井沢元彦さんなどは、

世の中は「松平=名君」、「田沼=悪」というイメージをもっているが、実は逆である。

といろいろな雑誌や著書で言っていますが、

それは歴史のその先の動きがわかったうえでの結果論からなので、何とも言えません。

 

僕はそれよりも

リアルタイムで生きていた源さんが、

このとき、どんな期待を持ちながら、この変革を思っていたのかが気になります。

 

大畑はこの変革によりどんな影響を受けることになるのでしょうか。

次回につづきます。

 

第一集から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

*1:山梨県

*2:和歌山県

*3:せんげ=天皇から命じられる。

*4:しんせい=直接政治

*5:民衆運動のひとつ。不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。

素材としての似顔絵06

どうも、しょうさんです。

 

今週の素材としての似顔絵です。

f:id:komeikanendo:20190912214412j:plain

Sting

 スティングというか、THE POLICE(以下ポリス)と出会ったのもベストヒットUSAでした。

83年なので、中学2年生でしたね。

ベストヒットUSAは、ほぼ毎週欠かさず見ていたくらい洋楽ファンでした。

ポリスがEvery breath you takeでチャートを賑わす前はメン・アット・ワークのファンでした。

なんとなく音楽性が似ていたのですんなりポリスは聞けました。

(実際は、メン・アット・ワークがポリスに似せていたんですけど。)

 

 

The Police

The Police

 

 

 

ただ、Every breath you takeは正直なところ、中学2年生の私にはピンとこない曲でした。何故にあんなに売れたのか当時はわかりませんでした。

 

私がポリス・ファンになった、きっかけの曲は、Wrapped around your fingerであり、SynchronicityⅡのプロモーションビデオ(以下PV)でした。

Wrapped around your fingerのPVでのスティングがグラサンをかけて飛跳ねながら歌っているのが妙に、切ないメロディにマッチしていたのと、

SynchronicityⅡの文句なしにカッコイイPVで一気にファンになりました。

 

正月のお年玉で、Wrapped around your fingerSynchronicityⅡの(当時流行っていた)12インチシングルを買いに行ったのをおぼえています。

 

ちなみにアルバムSynchronicityは、青森市内の音楽ショップでは、いつも売切れで、なかなか入手することができませんでした。

私がやっと買うことができたのは翌年の3月だったと記憶してます。

 

その他のそれまでリリースしているアルバムは、さすがに全部は買えなかったので、レンタルで借りてきて、片っ端から聞きまくり、ポリスの虜になりました。

 

スティングみたいになりたくて、

楽器なんて持ったこともないのに、バッタもののスペクタータイプベース(楽器)まで買いました。

 

そんな懐かしい中学時代の思い出でした。

スティングは私の最初のロックスターです。

 

よもぎたむらができるまで000

 

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) (人物叢書)

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) (人物叢書)

 

 

 どうも、しょうさんの息子のゲンです。

今回はよもぎたむらができるまでの外伝(?)ということで…

 

出 演 直 訴

f:id:komeikanendo:20190907230018j:plain

f:id:komeikanendo:20190910202533j:plain



次回は本編にもどります。

(たまには、こういうのもアリでしょ?)

 

阿弖流為 (K.Nakashima selection) [ 中島かずき ]

価格:1,944円
(2019/9/7 23:07時点)
感想(0件)

ばあちゃんの知恵

 

どうも、しょうさんです。

 

ある休日の昼のことです。

まだ健在だったころのばあちゃんと二人で昼飯を食べてました。

 

何を食べてそうなったのかは忘れましたが、

飲み込んだ瞬間、いやな気分になって、

途端に体中が痒くなって、みるみるブツブツがでてきました。

いわゆる蕁麻疹(じんましん)です。

 

「ヤベ、当だった。」

そう呟いた私を見た、ばあちゃんは

「待ってろ。」

と言って

食べてたものもそのままに

むくっと立って、玄関から出ていきました。

 

その間、私は洗面所に行き、自分の顔を鏡で確かめました。

見るも無残な、紅斑だらけのブサイク面でした。

やべぇ~。

せっかくの休日を蕁麻疹のおかげで台無しにするのかと思うと

テンションがた落ちです。

 

ばあちゃんが戻ってきました。

手には大根を持っています。

畑から抜いてきたのでしょう。

台所に飛んでいき、ササっと水洗いして、

ザクザクと三等分ぐらいに切ってから

大根おろしで下し始めました。

下した大根をガーゼみたいなもので包んで

グラスにギュッ。

 

「一気に飲め。」

 

休日の貴重な時間を無駄にしたくない私は、

藁にもすがる思いで、言われるまま飲み干しました。

 

一瞬で吐き気が襲ってきました。

速攻トイレに行ってもどしました。

 

みるみる痒みとともにブツブツが消えていきました。

 

「マジ、ばあちゃん神だ。」

 

トイレから戻ると、

ばあちゃんは何もなかったように昼飯を食べてました。

 

「治った。」

というと、

 

ばあちゃんは

「ああ、いがったなぁ。」

といってニコッと笑いました。

 

その時のばあちゃんは

マジかっこよかったです。

 

そんな、ある休日の出来事でした。

f:id:komeikanendo:20190911202623j:plain


 

 

じぶんでつくるクスリ箱―おばあちゃんの知恵、暮らしに活かそう

じぶんでつくるクスリ箱―おばあちゃんの知恵、暮らしに活かそう

 

 

 

え?その後の貴重な休日の午後をどうすごしたかって?

 

部屋でゲームしてました。

源さんが行く13

 

 

f:id:komeikanendo:20190906193104j:plain

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明六年(1786年)の記録・其の参

 天明四年、松本勘定奉行は工藤平助を召還して、蝦夷地事情を聴取する一方で、

蝦夷地通の勘定組頭の土山宗治郎にも調査させます。

土山レポートは五月に提出されました。

直ちに松本は現地の松前藩に、さらに六月になって藩士・横井関右衛門、下国舎人(しものくにとねり・人名)を呼び出して調査を命じたものの、いずれも赤蝦夷についてはあいまいな答えしか返ってきませんでした。

松本は意を決して、蝦夷地の金銀開発、ロシア交易のため、調査員を派遣したい意見書を老中に提出します。

調査隊原案を決定したのは十月でした。

八百石積の調査船を伊勢大湊(現・三重県伊勢市五十鈴川河口)で造らせます。

神通丸、五社丸の二艘が品川沖に姿を見せたのは、翌五年四月でした。

調査探検隊は、勘定所から選ばれ、松前藩からも応援されます。

編成は

 

遊軍班

普請役・佐藤玄六郎

普請役・皆川沖右衛門

下役・里見平蔵

下役・鈴木清七

 

蝦夷

普請役・山口鉄五郎

普請役・青島俊蔵

下役・大塚小市郎

下役・大石逸平

案内の松前藩士・浅利幸兵衛、近藤吉左衛門

通訳三人、医師一人

 

西蝦夷

普請役・庵原弥六

下役・引佐新兵衛

案内の松前藩士・柴田文蔵

通訳二人、医師一人

 

これに竿取、小者の雑役がつき、

青島俊蔵には最上徳内が竿取として従っていました。

船方は幕府廻船御用達の苫屋久兵衛が当たって造船を担当、

航海には苫屋の元手代・堺屋市左衛門が選ばれました。

そして、相談役に松前藩から追放中の湊源左衛門があずかっています。

湊源左衛門は松前藩勘定奉行でしたが、

飛騨屋久兵衛事件で罪を一身に負って、江戸に隠棲していました。

江戸では土山宗治郎、工藤兵助に近づき、北辺情報を提供していたそうです。

「赤蝦夷風説考:井上隆明編」より

 

 

山口鉄五郎、庵原弥六宣方が、西蝦夷地のカラフトまで渡航した。

その頃、山靼人が21人カラフトへ渡ってきていた。

山靼は満州の属国で、朝鮮族によく似ている。

韃靼*1辺りの国の中でも中心らしい。

カラフトの納甲(なこう・地名)から海路一日で山靼の海岸につく。

海辺を三日、山道を八日、川を舟で一日かかると凰披という湖に出る。

この湖沿いに五日進むと欽地漠に至り、ここには六、七十軒の集落がある。

湖水を渡ること二日で満州の大河に出る。

(中略)

山靼人はカラフトや宗谷で交易をする際、蝦夷人に対して、とても丁重な態度で対応し、言葉巧みに自分の国に同行させ、

「来年は必ず帰す」

と約束しながら、結局誰も戻ってこない。

毎年そうである。

蝦夷人はそれが悔しいと、どんなに高価なものでも、悪党たち(山靼人)の持ち込んだ品物は投げ捨てたという。

 

山靼人との内々の交易は領主(松前藩)に禁じられている。

 

f:id:komeikanendo:20190911192358j:plain

家族会議

 

 

 以上が原始謾筆風土年表~巻14~になります。

 

所々、その年のエピソードの順番を変えたりして

(一応)演出もしているつもりですが、

試行錯誤しながら、

もっと上手く、みなさんに伝えられたらと思って

頑張っています。

 

絶対に学校の教科書には出てこない、

源さんの目を通して映る

江戸時代の大畑から発信される歴史の数々と

 

意訳されている佐藤ミドリ先生をはじめ、

大畑で出会ったたくさんの人たちの思いを載せて、

源さんが行く

今後ともよろしくお願いいたします。

 

源さんが行く/第一集・完

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

次回は

源さんが行く/第二集

クナシリ・メナシの戦い(天明七年~寛政二年)

源さん40代の記録につづきます

 

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

*1:だったん=トルコ系モンゴル人

源さんが行く12

 

 

f:id:komeikanendo:20190906193104j:plain

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明六年(1786年)の記録・其の弐

天明六年五月、松前の江良町から茂草村の沖に数枚の帆をかけた三千石ほどの黒船(大型外国船)現れる。

同じ頃、さらに北の須築(すずき)海岸で、妻子と三人で漁をしていた蝦夷人の舟がこれに出会った。

異国船は、蝦夷人を手招きして、船に乗せ、一壺の酒と、餅二切れを与えた。

蝦夷人は採ったばかりのアワビをお返しに与えて帰ってきた。

蝦夷人は酒壺と餅を松前にいる長崎商人に見せた。

酒は阿弥牟(アメン)、餅は巴(パン)、壺は硝石(フラスコ)というのだとか。

その後、その船は宗谷でもその土地の蝦夷に餅と酒を与えていったということだ。

おそらく松前海岸の地形の偵察に来たものだろう。

 

f:id:komeikanendo:20190910201051j:plain

 

 

■江戸老中・田沼意次勘定奉行松本秀持桑原盛員らの命により、

去年から松前に下向している

佐藤玄六郎信行皆川沖右衛門秀道が、東蝦夷地のウルップ島へ渡航した。

この島で、安永の頃(1772~81年)から時折、エトロフ島に来ているロシア系アイヌの石横(イジュヨ)という者が、蝦夷人に話したことによると、

カムチャッカはロシア領の先端の岬だという。

そこへは、エトロフ島から十九里(70余㌔)でウルップ島、

そこから十一里(40㌔)でチリホイ島、

九里(30余㌔)で礼文チリホイ島、

さらに十里(36㌔)でマカンルル島、

二十里(75㌔弱)でシムシル島、

七里(20㌔)でウシシリ島、

七里でラショワ島、

七里で藻島(現マツワ島)、

五里でライコケ島、

十九里でシャスコタン島、

三里でカムチャツカの岬に至るという。

 

 前年江戸を出発した幕府の蝦夷地調査隊のうち、最上徳内(32歳)がクナシリ島、エトロフ島、ウルップ島を、大石逸平がカラフトをそれぞれ調査しました。

幕府による蝦夷地調査は、老中の田沼意次が工藤平助の意見を入れたもので、二年前の十月に派遣が決定しました。

 前年春、ロシア人の南下状況と蝦夷地の産物・資源調査を目的に、山口鉄五郎ら幕府普請役五人と下役数名の 蝦夷地調査隊が、八百石積みの新造船「神通丸」と「五社丸」に分乗して江戸を発ちました。

東西二手に分かれた調査は難航し、それぞれ蝦夷地に越冬、装備の不備から五人が死亡しました。

 この年の重点調査地域の一つ、千島方面には、一般の乗組員として参加した最上徳内が抜擢されて担当、エトロフ島でロシア人と接触し、ウルップ島まで踏査しました。

これによってロシアに関する知識を得るとともに、キリスト教が千島に普及している事実も判明。

一方、カラフト方面を担当した下役の大石逸平はクシュンナイまで達し、カラフトの全容と、アムール川下流域に住む山靼人との交易状況を明らかにしました。

 しかし、八月の田沼意次の失脚と共に蝦夷地の調査及び開拓計画は中止となります。

「日本全史・1786年の項より」

 

次回

源さんが行く13 - こめいがねんど

へつづく

 

はじめから読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

源さんが行く11

f:id:komeikanendo:20190906193104j:plain

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 

原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明六年(1786年)の記録・其の壱

村林源助 39歳・宿老

 

 正月元旦に皆既日食

平らな容器に水を入れて写すと、八分ほどの日蝕が見えた。

北海道では完全な皆既日食

蝦夷人たちは大慌てだったとか。

 

f:id:komeikanendo:20190908233330j:plain

■春、江戸で大火事

被災者に米一俵、金一両、精米三合、銀一匁が配られた。

江戸市中の大商人の中には蔵に米穀を巨万と蓄えている者がいて、

彼らに対し徒党を組んで狼藉*1を働く者が出た。

 

夏に関東で洪水が発生した。

凶作の年となって、また飢饉の様相が出てきた。

 

南部藩勘定台の堀江勇右衛門が山廻り*2に来た。

 

九月七日、突然雨が激しく降った。

釜野沢の奥は、数年前に崩れて改修したばかりだったが、数町にわたって立木の梢がわずかに見えるくらいまで、土石流がたまり、大きな沼が決壊したように、洪水が大畑の町なかに押し寄せた。

そのため、新町から役所前まで舟で移動しなければならなかった。

下新町の番屋が流れた。

大石に繋いであった七、八十石の船が、古道川の辺りまで、押し上げられた。

小目名の川原の畠には、四、五尺もある石が流されてきた。

 

囲碁初段の盛岡の隠士、駒峯治郎兵衛がしばらくの間、

大畑に滞在。

 

長さ八尺、円周五尺の松十本を松前藩に一両で売り渡した。

大筒に使用するとのこと。

 

大坂の和泉屋伝右衛門*3の夥計*4が遠路やってきて、八判*5を持参し、伊勢屋への案内を願いでた。

伊勢屋三郎治は津軽の山仕事に出向いていて不在だったが、書記人*6を添えて、家の状況、屋根のひさしや破風の零落ぶりを見てもらった。

お陰様で何事もなく終わった。

 

代官所の料紙(用紙)は端を緑色に染めている。

これは幕府の用紙が赤く染めてあるのを真似たものだ。

 

大畑の湊が、廻船の停泊地になった。

二艘ずつの荷積みを行う。

 

 飢饉があり、台風があり、地震があり…

昔から日本というのはそういう国なんですよね。

そのたびに立ち上がっていく。

強いな日本人は!

 

次回

源さんが行く12 - こめいがねんど

へつづく

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

 

 

いか寿司 イカ寿司 いかの寿司 3尾入

いか寿司 イカ寿司 いかの寿司 3尾入

 

 

 

*1:ろうぜき=暴挙

*2:山林監察

*3:古くから大畑と取引があった木綿問屋

*4:かけい=手代

*5:借金の証文

*6:ものかき

源さんが行く10

f:id:komeikanendo:20190906193104j:plain

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明五年(1785年)の記録

源助38歳・宿老

宝暦(1751~64)から月改め銭は、16文だったが、12文に減額。

【1銭=12文】

 

 尻矢(尻屋)の孫次郎が箱館から、たった一人で、櫂(かい)の丸木舟に乗って津軽海峡を渡ってきた。

 

 餓死者の供養と開山・日柔の百年忌の名目で、本門寺大乗妙典一石一字の塚がノッコロに築かれることになった。

 本門寺の七世の日省が、餓死者の供養と開山の百年忌を営むために、大乗妙典一石一字の婢の建立を発願しました。

しかしこのの悲願は、日省が天明七年八月に七十一歳で遷化*1したため、八世の日慎に受け継がれ、

寛政十年(1798年)七月十五日の盂蘭盆に、餓死者供養塔がノロッコの塚に建てられ、供養法要を営み、大施餓鬼*2を行いました。

この碑は、明治になってノッコロから本門寺の門の前に移されました。

【大畑町史より】

 

松前に江戸から出向いていた公儀衆*3から 、

安永七・八年(1779~80年)ころ、悪消*4の支配人だった、笠島荘治郎を召し出すようとの命があった。

検断*5西田平八と共に(私も)付き添って、箱館佐藤玄六郎*6の宿泊先に出向いた。

当時ロシア人と交易があったかどうか問いただされた。

 

f:id:komeikanendo:20190908083755j:plain


 

兀古沙魚(コッコカシャ=ハゼ?)という魚がおびただしい量、流れ着いた。

蝦夷方面では佳賀茂古留倍という。

 

八月六日の風雨大浪で、湊の浜に漂昆布(よりこんぶ)が多くあがった。

これを外ヶ浜昆布として出荷しようしたが、

昆布局が許さなかった。

代官所の判断では、仕方ない。

 

疱瘡(ほうそう=天然痘)が大流行した。

 

  天明五年の記録は以上になります。

僕が気になったのは、ロシア人との交易を問われた笠島荘治郎の一件です。

この数年後起こる、クナシリ・メナシの戦いに関係する事柄なので、

これからどのように動いていくのか、源さん視点で注目していきたいです。

 

天明六年

源さんが行く11 - こめいがねんど

へつづきます。

 

最初から読みたい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

 

 

*1:せんげ=高僧の死

*2:無縁仏に対する供養

*3:幕府役人

*4:あっけし=飛騨屋の厚岸場所

*5:村役人

*6:幕府の蝦夷地探検隊の中心人物

素材としての似顔絵05

どうも、しょうさんです。

今週の素材としての似顔絵です。

f:id:komeikanendo:20190905212208j:plain

スザンナ・ホフスさん

そういえば女性を描いてないなと思い、

初めて描いたのがこの方です。

 

80年代活躍したバングルスのメインヴォーカリストです。

正直、音楽的にはプリンスがプロデュースしてても

いまいちピンときませんでしたが、

高校生だった私は、初めてベストヒットUSAでその姿を拝見したとき、

色っぽいと思いました。

そんな彼女の顔立ちが好きです。

 

以上

playlist:ヴェリー・ベスト・オブ・バングルス [ ザ・バングルス ]

価格:1,136円
(2019/9/5 21:37時点)
感想(2件)