こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村の歴史や文化、たまに趣味のねんど作品を紹介する雑記ブログ

未来の蓬田村・鎌倉時代編エピソード1のまとめ

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

ここまでの未来の蓬田村鎌倉時代編のおさらいです。

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次回は、その住職が帰ってきたところから始まります。

 

 

未来の蓬田村・三兄弟編

未来の蓬田村では26 - こめいがねんど

 

未来の蓬田村シリーズ・最初から一気読み

未来の蓬田村ではシリーズのこれまで - こめいがねんど

 

 

青森県産きのこ図鑑

青森県産きのこ図鑑

  • 作者:工藤伸一,長澤栄史
  • 出版社/メーカー: アクセス21出版
  • 発売日: 2017/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~3

 

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

今回は、小正月の話から始めます。

 

初代・光行の奥州下向/その3

 

えんぶりの始まり

 正月十五日(小正月)には、今度は光行たちが部下たちの中から踊りが上手いものを何人か選んで、はやしの音もにぎやかに、

烏帽子、直垂*1に武器をもって、郷士の家や農家を一軒一軒踊りまわらせました。

「正月のお祝いに参上!」

と大声で呼び、抜身の刀を持って家の中に踊りこむので、人々にとってはたまったものではありません。

ただビックリして見ているしかありませんでした。

 

とにかくこの行事はあまりに物騒で、正月のお祝いらしくないので、

その後、次第に杁*2や扇を持って踊るようになり、これが今も八戸を中心に行われている郷土芸能えんぶりの始まりだと言われています。

 

また、この小正月女の年とりとも言われています。

光行たちが糠部についてから、約半月遅れて女たちが到着したので、その女たちのために十五日にお祝いしてやったのが例となって残ったものだと伝えられています。

 

平良ヶ崎城

こうして、どうにか三戸、田子方面は南部氏に服従するようになりましたが、広い糠部には、まだまだ心服していない郷士たちもたくさんいました。

そこで光行は、平良ヶ崎の小高い丘(現・南部中学校辺り)を選んで、雪が消えるのを待って居城を作らせることにしました。

城を作ると言っても、当時はまだ木工や石工に巧みな者が少なく、工事はかなり難航したようです。

それでも、居猿山総左衛門が棟梁になり、農民たちを励まして工事を急いだので、その年の九月にはだいたい完成したそうです。

 

そこで光行は、今後の領内経営の方針などを定めて、代わりの者たちをその城に残して、九月下旬には再び鎌倉に帰っていきました。

  【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

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以上が、初代・光行が初めて糠部に来た際の史実とも、伝説とも言えるようなエピソードを紹介してみました。

どうしても南部の歴史に関する物があまり残っていなくて、いろいろと南部藩に関する本を調べてみましたが、どれもこれも史実なのか伝説なのか、正直わかりません。

そうゆうことで、今回は図書館で見つけた物語 南部の歴史・中世編」という本が一番しっくり来たので、これをベースにある程度、進めていきたいと思っております。

 

さて次回は、光行のルーツに迫っていきたいと思います。

 

つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

 

 

*1:ひたたれ=武士の礼服

*2:えぶり=田植えの時、田の土をならす農具

おおはたまちができるまで~南部のはなし~2

 

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部光行は、田子村の郷士田子丹波の家に移り、

早速糠部の改革に入っていきます。

 

初代・光行の奥州下向/その2

光行が、つかの間の一服をとっていいると、田子丹波が忠告しました。

 

「仮にも領主さまの館には、一日といえども非常の備えがなくてはなりません。

早速人夫を集めて防備を固めさせましょう。」

 

それから急いで村人を動員して、徹夜の作業をして、その夜のうちに家の周りに堀を掘らせました。

これを丹波の一夜掘りというそうです。

 

この日集まった郷士の中には、

佐々木氏、原氏、斗内市、福田氏、豊川氏、日ノ沢氏などという者たちがいたそうです。

 

南部の私大

この日十二月二十九日は、十二月でもあいにくの小の月で、ちょうど一年の大晦日の日に当たりました。

ですが、その二十九日に人夫を集めて堀を掘ったりしたので、とても大晦日のお祝いなどをしている暇がありませんでした。

そこで、光行たちが相談して、

この年だけは特別、小の月大の月に変えて、翌三十日を大晦日とし、二日を元日として正月のお祝いをすることにしました。

 

昔は旧暦を用いていたので、大の月は三十日で、小の月は二十九日でした。

今のように三十一日という日は無く、年によっては十二月でも二十九日が大晦日の年もありました。

 

この例が、その後も習わしとなって、

南部家では代々、十二月が小の月に当たる年には、特別これを大の月に変えて、大晦日や元旦のお祝いをしたということです。

これを南部の私大(わたくしだい)とよんでいます。

 

さて、光行一行は翌二日を元日として正月のお祝いをしましたが、これを聞いた近くの村々の郷士たちが、いろいろな物を持って丹波の家に集まり、領主に正月の御挨拶をしました。

これもまたその後の例となって

代々この郷士たちの子孫は、正月には南部家に何か物を献上して、領主に拝謁*1を賜ったということです。

  【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

 

 

*1:はいえつ=お目にかかる

おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

さて、歴史は鎌倉幕府成立まで進みました。

ここで話を蓬田村が属する津軽エリアから、大畑町が属する南部エリアに移して進めていきたいと思います。

 

先ずはプロローグとして、初代・光行(みつゆき)が当時の糠部(ぬかのぶ)地方に初めて来たあたりから始めたいと思います。

 

初代・光行の奥州下向

建久二年(1191)十二月二十八日、甲斐(山梨県)南部郷・領主、光行一行が、長い船旅を終えて、ようやく糠部の八戸浦に到着しました。 

 

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光行は甲斐源氏の一族で、南部郷を領地としていたので、南部氏を名乗っていました。

 

文治五年(1189)奥州藤原との合戦の際、光行が阿津賀志山(あつかしやま)の戦いで手柄を立てたことにより、源頼朝から奥州糠部の地を賜りました。

頼朝は、馬の飼育には豊かな経験を持つ光行を馬産地糠部の領主に選んだと言われています。

 

その二年後の十月、部下七十三名をひきいて、六艘の船に分乗して、鎌倉の由比が浜を船出。途中大嵐にあったりして、二か月以上かけてようやく糠部に到着したのでした。

 

八戸浦はまだ蝦夷地と言われていたころで、遠くにわら屋根がポツポツと見えるくらいで、砂浜の向こうには、一面に枯れ草が生え茂っている荒れ地だったといいます。

なので山国育ちの部下たちは、想像していた糠部の地との違いに意気が下がる一方でした。

ただ光行だけは、この広々とした原野が、馬を育てるのには最適な場所であることが分かっていて、笑みさえ浮かべていました。

 

 八戸に上陸した一行は、光行が部下たちを励まし続けながら、やっと川のそばにある小道を探し当て、そこから川沿いに西へ西へと歩き進めました。

そして、やがて日が暮れる頃、ようやく道端にある小さな祠を見つけて、そこで一夜を明かしました。

その祠というのは、今の三戸郡南部町の相内(あいない)にある観音堂(正継山円通寺)であったと言われています。

 

お宮があるくらいなので、近くには何軒かの民家もありました。

翌二十九日には、物珍しげに、村人たちがたくさん集まってきました。

言葉はよく通じませんでしたが、どうやらこれからこの辺りの領主になる南部という武士の一行であることが村人にもわかりました。

ビックリした村の先だちたちが、大急ぎで使いを走らせ、それから田子村の郷士*1田子丹波の家に一行を案内しました。

光行たちは丹波の家に移り、部下たちも近くの民家に宿をとることにしました。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

 

 

*1:ごうし=地方にいる武士

源さんが行く73

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

寛政七年後半の記録のつづきになります。

今回は前回の下風呂の簡石の資料から始めたいと思います。

 

寛政七年(1795年)の記録・その弐

 資料編【下北文化誌】より

ー『風間浦村誌』に…

下風呂から易国間の旧街道にて焼山の上の路(みち)のかたわらに梵字を刻んだ大石があるという。

越膳老人はかつて一、二度、梵字石を拝んだことがあるというが、畑山村長はこの梵字石を尋ねて、ついに発見しえなかった。

下風呂の海岸に札石といって、何か書きつけたようにみえる石が沈んでおり大潮の日には見ることができたと菅江真澄の「牧の冬枯」紀行に載せられている〉と…。

 

今でも見ることができるのでしょうか?

見てみたいですね。

記録に戻ります。

 

歌舞伎女形の坂田弟吉が来た。 

 

仙台のめくら瞽女(ごぜ)が琴の演奏をおこない、八橋流の「砧(きぬた)の曲」や「滝落とし」を弾いた。

 

この年に春日明神に石垣を築いたが、文化年間には崩れてしまった。

 

浄土宗の葬式行列は、大声で念仏を唱えながら進む。

 

麦茶を飲むことが流行している。私はアケビや五加木(ウコギ)、ほだ木や柳の芽なども煎じて飲んでみた。ハッカ煙草は前に試した。話の種に、今度は菱(ひし)の実煙草を試してみたい。

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以上、寛政七年後半の記録でした。

(さすがに後半戦なだけあって短いですね。)

しかし次回、寛政八年の記録から、かなり長丁場になります。

みなさん、おつきあいのほど、よろしくお願いします。

 

つづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

第三集の最初から読みたい方は

源さんが行く39 - こめいがねんど

 

第四集の最初から読みたい方は

源さんが行く57 - こめいがねんど

 

源さんが行く72

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

前回、第四集の最後に次回は 寛政八年の記録から始めます。と書きましたが、

正しくは寛政七年後半の記録から始まります。(スミマセン)

 

なので、源さん48歳・宿老のまま記録を続けます。

 

寛政七年(1795年)の記録・其の壱

下風呂の立石の渚に、砂に埋もれたり現れ出たりして、サンスクリット語*1が書かれたように見える簡石*2があると聞いた。

最近の高波で大量の砂が沖に運ばれ、磯の石が現れたと聞き、もしやあの簡石もあるのではないかと思ったけれども、つてがないので見に行けなかった。

 

ところで、津軽飴を売りに来る商人がこんな事を話した。

八甲田のてっぺんに大きな石の碑があるという噂を聞き、ある物好きが実際に八甲田に登ってみた。

たとえそれが噂だとしても、また、たとえ魑魅(ちみ)魍魎*3に害されようとも、昔から伝えられていることの真意を確かめずにはいられない。

木々の枝葉やトゲに道をふさがれる季節は避けて、雪の季節、僕従*4や木こり五人と登ったが、頂上近くはあまりに急峻(きゅうしゅん)なため、あちこち徘徊して、結局、下山せざるをえなかったらしい。

夏泊半島の椿山に高さ六尺(1.8㍍)、周囲三尺(0.9㍍)のとがった石があり、上の平らな部分に五行*5の詩文が彫られ、いつ頃に彫られたものか、せめて年号だけでも読み取ろうとしたが、文字が読めず地団太踏んだ。

青森の滝ノ沢の山中の川岸の崖にも、丸い石があり、三行の文字が書かれている。

少なくとも家印*6の四、五字は読み取れる。

文章全体では二十一文字もあろうか。

しかし、実際には無い文字ばかりだったと、この津軽飴売りは風流な話をしゃれっ気たっぷりに語った。

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 つづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

第三集の最初から読みたい方は

源さんが行く39 - こめいがねんど

 

第四集の最初から読みたい方は

源さんが行く57 - こめいがねんど

 

*1:ぼんじ=梵字

*2:源さんはフダイシとルビ

*3:もうりょう=木石の怪、山川の精

*4:ぼくじゅう=召使

*5:源さんはクダリとルビ

*6:源さんはヤジルシとルビ

ノムさん

 

 

どうも、しょうさんです。

 

生まれつきインドア派の私も、少年時代は、一応野球少年でした。

小学校時代は、レギュラーになったことはありませんが、野球部でした。

 

小学二年の時に王さんが756号の世界記録のホームランを打って、

記念に東映まんがまつりみたいな映画を父親と弟で見に行った記憶があります。

その時上映したのは巨人の星だったような気がします。

 

小学三年生のときにヤクルト・スワローズが初優勝して、ヤクルトの野球帽を買ってもらいました。

それからずっとヤクルトはBクラスをひた走っていましたが、

小学校の卒業アルバムの修学旅行のスナップ写真で私がかぶっている帽子は、ヤクルトの野球帽です。

 

中学高校時代は、興味が音楽やゲームに移ったので、

それほど夢中になるほどプロ野球を気にして生活していませんでしたが、

それでも野球ゲームではいつもヤクルトを使ってプレイしていました。

 

高校の時に、村上春樹氏の「ノルウェイの森」を読んで、村上氏の小説やエッセイを片っ端から読みました。

私が読んだエッセイの中で、村上氏がヤクルトファンであることが書かれていました。

私の中で、ヤクルトファン熱が再燃しました。

 

その頃のヤクルトは関根監督で、長嶋一茂選手が入団した頃でした。

世間は長嶋茂雄ジュニアの一茂ばかり注目していましたが、

私は当時、広沢選手とクリーンナップを打っていた池山選手のファンになりました。

ベースボールマガジン社のベースボール・アルバム「池山隆寛」は3冊持ってます。)

 

東京での学生時代は、毎週のように神宮のバッティングセンターに行き、

たまには友達とヤクルトの野球観戦に行きました。

上野の野球グランドで、友達と野球の試合をしてフェンス越えのホームランを打ったのは今も記憶に残っています。

 

そしてヤクルトスワローズ野村克也氏(ノムさん)が監督としてやってきました。

最初のノムさんの印象は、監督をやる前に解説者としてよくTVで野村スコープなるものをTVの画面上で配球の説明をする、めんどくさいオッサンというイメージでした。

 

しかしヤクルトは徐々に強くなっていき、ノムさん就任三年目で、とうとう優勝しました。ヤクルト黄金時代の到来です。

 

それからのノムさんの経歴は、もうさんざんTVで特集が組まれて、みなさんの方が詳しいと思うので、省略します。

 

私は、ノムさんが書かれた「野村ノート」等の本も数冊持ってますし、

楽天の監督を辞めさせられた後の講演会に、ひとりで見に行ったこともあります。

 

もちろん社会人になってからは、野球とは縁のない生活を送っていますが、

それでもノムさんのボヤキや著書は、いつも気にしていました。

 

そんな、私にとってなぜか気になるノムさんが先日亡くなられました。

 

亡くなってからNHK特番でノムさんのドキュメンタリー「ひとりで生きる」というのを見ました。

私はその番組を見て、泣きました。

私がノムさん惹かれていたのは、その人柄が好きだったんだと、目にうっすらと涙が込み上げてきたときに気づきました。

 

ノムさんの野球哲学や人生哲学が、教え子やその他いろんな人たちに確実に受け継がれていることをうれしく思います。

ノムさんバンザイ!

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未来の蓬田村では~鎌倉時代編~エピソード1-7

 

 

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

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つづく

 

 未来の蓬田村・三兄弟編

未来の蓬田村では26 - こめいがねんど

 

未来の蓬田村シリーズ・最初から一気読み

未来の蓬田村ではシリーズのこれまで - こめいがねんど

 

 

未来の蓬田村では~鎌倉時代編~エピソード1-6

 

 

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

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つづく

 

 未来の蓬田村・三兄弟編

未来の蓬田村では26 - こめいがねんど

 

未来の蓬田村シリーズ・最初から一気読み

未来の蓬田村ではシリーズのこれまで - こめいがねんど