源さんと蠣崎蔵人
お世話になっております、しょう3です。
え~おかげさまで、「源さんが行く」、並びに「おおはたまちができるまで~南部のはなし~」が好評でして、今後の展開が気になるところですが
まず「源さんが行く~原始謾筆風土年表~」の方は
源さんが宿老を辞めたところまで話が進みました。
さてこれから、
このままそれからの記録を続けるか、
思い切ってもっと前の若い頃の記録をはじめようか迷っています。
どちらにしても源さんが記録した面白い話てんこ盛りなので期待してもらいたいです。
もう一方の「おおはたまちができるまで~南部のはなし~」ですが
南部のはなしだけで鎌倉幕府のちょっと前から室町時代のチョイ手前までで106回も続きました。
いろんなことがあって私的にも面白く記事を書いていました。
そして104話で、蠣崎蔵人の乱がちょっとだけ出てきたわけですが、
次回からはこちら側(蠣崎サイド)から紹介していきたいと思います。
あくまでおおはたまちができるまでがメインなので、南部氏と絡めて下北側のはなしとして進めていきたいと思います。
ただそろそろ漫画「外の浜~ある村のはなし~」の方も再開しますので、
漫画の方を始めるとなるとどうしてもそちらに集中しないとできませんので、もしかしたら「源さんが行く」、「おおはたまちができるまで」は年明けぐらいになるかも知れません。(正直、カラダが3つ欲しいです!)
いろいろとありますが、今度ともこめいがねんどをよろしくお願いします。
そういや最近ねんど作ってないなぁ…
がんばれ!むつ市大畑町 郷土料理編
お世話になっております、しょう3です。
今回は
「むつ市大畑町ささやかながらの応援」記事として
今まで私が紹介してきた中から、
下北の郷土料理をあらためて紹介してみたいと思います。
ついでにかっぱの湯のエピソードも載せておきます。
みなさんが一日も早く笑って暮らせるようになることを願ってます。
がんばれ!むつ市大畑町 vol.3
お世話になっております、しょう3です。
今回は
「むつ市大畑町ささやかながらの応援」記事として
ズラーっと商品を紹介していきます。
【ふるさと納税】むつ甘美堂のべこもち(5枚入り×3袋)【1116272】
- 価格: 12000 円
- 楽天で詳細を見る
今回も紹介した商品は、上記のそれぞれのリンク先からでも購入できますが、
こちらからでもご注文できます。
是非参考にしてみてください‼
がんばれ!むつ市大畑町 vol.2
お世話になっております、しょう3です。
今回も
「むつ市大畑町ささやかながらの応援」記事を書いていきます。
まずは
海上自衛隊は海にいて外の風景がほとんど変わらないため、隊員の曜日感覚がなくならないように毎週金曜日はカレーを食べる習慣があるそうです。
おおみなと海自カレーが食べられるのはむつ市内7店舗。
(上記のホームページから各店舗を探してみてください。)
それぞれに違った各部隊の味を食べ比べてみてください。
「大湊Sora空!」
こちらは航空自衛隊直伝のむつ市の新たな当地グルメのからあげです。
ミルク工房 ボン・サーブ
ヨーグルトなどの乳製品を購入できます。
またここのソフトクリームは絶品です!
今回も紹介した商品は、上記のそれぞれのリンク先からでも購入できますが、
こちらからでもご注文できます。
是非参考にしてみてください‼
がんばれ!むつ市大畑町 vol.1
お世話になっております、しょう3です。
前回にひきつづき、
「むつ市大畑町ささやかながらの応援」記事を書いていきます。
まずは何年かかってでも完全復活していただきたい
大畑ブランド「海峡サーモン」の北彩屋さん
平成元年10月に設立し、過去2回海峡サーモン全滅を経験しながら、現在では全国にその名が知られるくらいの大畑が誇るブランド商品。
2度の全滅を経験していますので、大丈夫完全復活してくれると信じています。
関乃井酒造
下北半島唯一の本州最北端の造り酒屋です。
下北ワイン サンマモルワイナリー
1998年にぶどう栽培をスタートさせて、何度となく賞を受賞している下北が誇るワインブランドです。
今回紹介した商品は、上記のそれぞれのリンク先からでも購入できますが、
こちらからでもご注文できます。
是非参考にしてみてください‼
むつ市大畑町大雨災害
お世話になっております、しょう3です。
どこかで周りの評価ばかり気にして行動している自分が、
はじめて
自分のことなど、どうでもよくなって行動したくなっています。
これは義父が8月23日にLINEで近況を伝えるべく送ってくれた、むつ市大畑町の現在です。
8月10日、むつ市大畑町は温帯低気圧による大雨で未曽有の大災害に見舞われました。
大畑町出身である妻と義父との電話のやり取りから、当初は、(義父母に問題なければいいか)と楽観的に考えていましたが、
毎日のようにFBに送られてくる大畑の方々からのいろいろな現状の映像や、写真、復旧作業、宮下むつ市長の会見などをネットで拝見しているうちに、むつ市の現状が、そんな楽観視できる状況ではないことが、日を増すことに強まってきました。
おまけに、ここにきてのむつ市のコロナ感染者の急増…。
義父の写真からもわかるように、大雨で流れ着いた流木の数がおびただしく、これを撤去するのにも、今まではボランティアの人員で何とかなっていたものも、さすがにすべてを撤去するのにはそれなりの重機が必要な状況になってきているとのことです。
漁師の方々は、流木を撤去しないと漁にも出れない、定置網の被害も尋常じゃない、イコール生活費を賄えない状況。
事態を重く見た宮下市長は(苦渋の決断で)県に県内外にコロナ禍特有の条件付きで撤去作業を要請。
一番心を痛めたのは
このブログでも定期的に紹介している
大畑町のブランド特産品、海峡サーモンの養魚場の全壊。
土砂災害により養殖した魚は全滅。先が全く見えない状況だという。
ブログを始めて2年。
私がここまで続けてこれたのも、「原始謾筆風土年表」という大畑町に生きた村林源助の本に出会えたおかげであり、それに携わった人たちの協力があったからだと思っています。
出来ることならボランティアとして大畑に向かいたいですが、このコロナ禍で市街の人間がむつ市内に入ることも正直難しい状況です。
だとすると私には何ができるのだろう?
むつ市の特産品を紹介して、たくさんの人に買ってもらい、少しでも経済の建て直しができたらと思いました。
スミマセン。
今はそれぐらいしか思いつきませんが、皆さんご協力お願いします。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~106
お世話になっております、しょう3です。
謎多き南部信政の話3回目です。
根城南部五代の誠忠(Ⅲ)
根城南部氏六代・信政(3)
信政が父に先だって死んだというのは事実のようなので、第五代政長のあと第六代を継ぐのは信政ではなく、孫の信光でなければなりません。
しかし根城南部氏の系図では信政が第六代を継いでいます。
その相続関係については、当時何か特別の事情があったのではないでしょうか。
歴史書としては必ずしもすべて信頼はされていないようですが、「三翁昔語」には、
御隠居政長君 御卒去 御牌名
という記事があります。
たった一行の記録ですが、この記事から想像をすると、政長が亡くなる頃にはすでにご隠居とよばれていたに違いありません。
隠居という言葉が使われたのは室町時代の頃からということです。
隠居というのは、一家の戸主が官職(公の役職)を辞退して、相続人にその地位を譲ることです。
信光や政光への譲状の中にも、政長は自分の役職名を「前(さきの)遠江守源政長」と書いています。
「前」というのはかつて遠江守であった政長ということです。
だからこの譲状を書いたころはすでに政長は遠江守という官職を辞退して、根城南部氏の六代目を信政に譲っていたのかもしれません。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~105
お世話になっております、しょう3です。
南部信政の話を続けます。
根城南部五代の誠忠(Ⅲ)
根城南部氏六代・信政(2)
信政に北畠顕信から文書が届いたころは、おそらく糠部から吉野に上って、吉野朝廷を守る親衛隊の中に加わっていたと思われます。
それから二年後の正平二年六月には官軍と熊野の水軍による北朝攻撃戦に南部の部隊を率いて参戦したのではないかともいわれています。
そしてその翌年正平三年(1348)一月に楠木正成の子・正行が四条畷(なわて)で高師直軍と戦った時、信政も共に戦い、討ち死にをしたのではないかという説があります。
またそれとは全く違う別の説も伝えられています。
「東北太平記」(田名部御陣日記)によれば、正平二年に信政は後村上天皇の命により、護良(もりなが)親王の御子・八幡丸(はちまんまる)を奉じて奥州に下ったというのです。
そして糠部の下北半島に、この八幡丸を初代として「北部王家(きたべおうけ)」をたて、その後第五代義純の代(八戸氏十三代政経の代)には有名な「蠣崎蔵人の乱」が起きています。
しかしこの「東北太平記」というのは、「田名部御陣日記」を元にして、物語風に書かれたものなので、誇張も多く、そのまますべてを史実としてみるわけにはいかないのではないかといわれています。
けれどもその中には事実と一致している点もあるので、まったく「北部王家」を否定してしまうことはできません。
信政がもしこの「御陣日記」に書かれているように、下北に北部王家をたてたとすれば、信政はすでに正平三年には糠部に帰っていたはずです。
なのでもちろん楠木正行の四条畷の戦いには参戦できなかったに違いありません。
いずれにしても多くの歴史書では、信政は「父に先だって死す」と言われています。
だから前にも述べた譲状でも政長は、自分の領地を信政ではなく、孫の信光と信政の妻にゆずっています。
信政の妻は津軽の工藤貞行の娘・加伊寿(かいず)御前でした。
七戸の譲状の中では、その加伊寿御前のことを「後家」と書いています。
「後家」というのは夫に死に別れた未亡人のことです。
だから「田名部御陣日記」が事実であったとすれば、信政は下北に北部王家をたてた正平三年(1348)から正平五年八月十五日(政長が譲状を書いた日)までの間に亡くなったことになります。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~104
お世話になっております、しょう3です。
足利氏の内紛のすきをついて南朝軍は動きましたが、結局のところ何もできずに一瞬の夢と終わってしまいました。
ほぼここで決着が着いたといえます。
時代は室町時代へと動いていくわけですが、今回から数回に分けて、この時代に生きた南部氏数代の生きざまをもう少し詳しく紹介していきたいと思います。
根城南部五代の誠忠(Ⅲ)
根城南部氏六代・信政(1)
南部政長には男の子が三人ありました。
先妻(兄師行の娘)の子は長男・信政で、後妻(宗家九代・祐政の娘)との間の子は、二男・政持と三男・信助でした。
信政の業績については、父政長や伯父師行の陰に隠れて、南部の歴史書にもあまり詳しくは伝えられていません。
建武二年(1335)十二月に足利尊氏が鎌倉で謀反を企てた時には、天皇からの御綸旨(命令)により、北畠顕家が奥州軍を率いて、第一回目の西上戦を行いました。
そのときには父政長が糠部の防備に当り、伯父師行が多賀の国府を守ったので、長男の信政がこの遠征軍に参加をしました。
そして近江や京都で大いに活躍しています。
それから二年後の延元二年(建武四年)八月の第二回目の西上戦には、師行や津軽の工藤貞行が参加をしたので、後に残った政長や信政が糠部や津軽を守っていました。
津軽での曽我氏との戦いは、すでにその前年から始まっていましたが、翌年(延元二年)になってもまだ治まらず、一年近くも戦っています。
一月には田舎楯(いなかだて)で合戦が行われ、七月には大里合戦、鹿角合戦が行われました。
とくに鹿角合戦では信政が大きな手柄をたてたといわれています。
それで鎮守府将軍顕信から政長宛ての御教書(みぎょうしょ)の中で、信政の功が賞されています。
さらに八年後の興国六年(1345)三月二十六日には「度々の合戦に忠節を尽くした」という功により、顯信卿から改めて南部左近将監(信政)に、文書による賞が贈られました。
そしてその翌年には
達智門女院(たつちもんにょいん)に誉(あ)げ申さるべき也
判(顯信花印)
申 右近蔵人(うこんくらんど)
源 信政
興四六年(1345)三月二十七日
達智門女院というのは後宇多天皇の皇女で、後醍醐天皇の御兄妹に当ります。
信政はその護衛役、右近蔵人を仰せつかったのでしょう。
また同じ日に弟(三男)信助も、刑部丞(ぎょうぶじょう)から兵庫助に任ぜられています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1