おおはたまちができるまで~南部のはなし~105
お世話になっております、しょう3です。
南部信政の話を続けます。
根城南部五代の誠忠(Ⅲ)
根城南部氏六代・信政(2)
信政に北畠顕信から文書が届いたころは、おそらく糠部から吉野に上って、吉野朝廷を守る親衛隊の中に加わっていたと思われます。
それから二年後の正平二年六月には官軍と熊野の水軍による北朝攻撃戦に南部の部隊を率いて参戦したのではないかともいわれています。
そしてその翌年正平三年(1348)一月に楠木正成の子・正行が四条畷(なわて)で高師直軍と戦った時、信政も共に戦い、討ち死にをしたのではないかという説があります。
またそれとは全く違う別の説も伝えられています。
「東北太平記」(田名部御陣日記)によれば、正平二年に信政は後村上天皇の命により、護良(もりなが)親王の御子・八幡丸(はちまんまる)を奉じて奥州に下ったというのです。
そして糠部の下北半島に、この八幡丸を初代として「北部王家(きたべおうけ)」をたて、その後第五代義純の代(八戸氏十三代政経の代)には有名な「蠣崎蔵人の乱」が起きています。
しかしこの「東北太平記」というのは、「田名部御陣日記」を元にして、物語風に書かれたものなので、誇張も多く、そのまますべてを史実としてみるわけにはいかないのではないかといわれています。
けれどもその中には事実と一致している点もあるので、まったく「北部王家」を否定してしまうことはできません。
信政がもしこの「御陣日記」に書かれているように、下北に北部王家をたてたとすれば、信政はすでに正平三年には糠部に帰っていたはずです。
なのでもちろん楠木正行の四条畷の戦いには参戦できなかったに違いありません。
いずれにしても多くの歴史書では、信政は「父に先だって死す」と言われています。
だから前にも述べた譲状でも政長は、自分の領地を信政ではなく、孫の信光と信政の妻にゆずっています。
信政の妻は津軽の工藤貞行の娘・加伊寿(かいず)御前でした。
七戸の譲状の中では、その加伊寿御前のことを「後家」と書いています。
「後家」というのは夫に死に別れた未亡人のことです。
だから「田名部御陣日記」が事実であったとすれば、信政は下北に北部王家をたてた正平三年(1348)から正平五年八月十五日(政長が譲状を書いた日)までの間に亡くなったことになります。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1