おおはたまちができるまで~南部のはなし~73
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
根城南部氏五代の誠忠
帰路についた北畠顕家(3)
小高城が落ちた延元元年五月二十五日は、ちょうど「湊川の戦い」で楠木正成が、東上してきた足利軍に敗れ自害をした日です。
そして二十七日には後醍醐天皇はまた比叡山に逃れ、二十九日には足利軍は京都を占領しました。
六月には天皇方の千種忠顕や名和長年も京都を攻めましたが、敗れて戦死をしました。
こうして南朝の重臣が次々に倒れ、北朝の勢いはますます盛んになります。
だが天皇はあくまでも望みを捨てません。
また顕家も決して力を落とすようなことはありませんでした。
小高城を破った顕家は、激戦と旅の疲れで弱ってはいましたが、ようやく五月の末に多賀の国府に着きました。
「三翁昔語」には、
「御帰府のこと、信政君も御供をし、つつがなく下着なさる也」
と書かれています。
糠部軍を率いた信政は、中央軍と共に何回となく激戦を重ねて、戦死者や負傷者も出たのでしょうが、とにかく無事に多賀に着きました。
またこのとき多賀を守っていた師行もお祝いのため、数か月国府に逗留したといわれています。
おそらく顕家に留守中の報告なども詳しくしたのでしょう。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1