おおはたまちができるまで~南部のはなし~74
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
根城南部氏五代の誠忠
南北朝の対立(1)
顕家は約五か月ぶりで国府に帰ってきましたが、出発の頃に比べるとその国府は、何という変わりようでしょうか。
主だった役人はみな散り散りになり、二年半前のあの華やかさは、まるで遠い昔の夢のようでした。
津軽ではまた曽我貞光が動き出し、相馬(福島県北部)や常陸(茨木県)の戦も、それぞれ北朝・南朝に分かれて、一進一退の戦いを続けていました。
地方の武士たちはただ恩賞を目当てに戦うので、京都の情勢次第で、たちまち敵・味方が入れ替わってしまいます。
顕家が京都から帰った後、尊氏が京都を占領したので、北朝側に味方する者がますます多くなったのでした。
その頃は朝廷内にも持明院(じみょういん)統と大覚寺(だいかくじ)統という二つの派閥があって互いに天皇の位を争っていました。
二つの派閥から交互に天皇を出す約束になっていたのです。
地方の武士たちもまたこの二つの派閥に分かれ、持明院統を支持する武家方についたり、大覚寺統を支持する公家方についたりしていました。
五月に大覚寺統の後醍醐天皇が比叡山に逃れた時、実は密かに持明院統である花国上皇と光巌上皇、その弟の豊仁親王(のちの光明天皇)が途中から急に京都に引き返していました。
あの北条高時が後醍醐天皇を隠岐の島に流した時にも、高時は無理矢理に位を持明院統の量仁親王にゆずらせ、光厳天皇と称させました。(もちろん後醍醐天皇はそれを承知しなかったので、三種の神器は渡していませんでした。)
正式に即位はしなくても天皇と呼ばれたので、実はその時からもう事実上の南北朝時代がはじまっていたといってもよいのでしょう。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1