よもぎたむらができるまで27
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
前九年・後三年合戦が落ち着き、
東北は奥州藤原氏の時代に入っていきます。
話は、清衡(きよひら)が姓を清原でもなく、母方の安倍でもなく、
実父の藤原経清(つねきよ)の姓を選んだところから進めていきたいと思います。
奥州藤原氏・其の壱
藤原家のルーツを辿ると、平将門の乱(939年)の際、
将門を平貞盛(たいらのさだもり)と共に討ち取った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れをくむ軍事貴族だったようです。
清衡の祖父・藤原頼遠(よりとお)は、坂東(関東地方)の武人だったらしく、
源頼義の弟・頼清が陸奥守就任に従って、陸奥へ来たといわれています。
頼清の任期が終わった後も陸奥に留まり、亘理郡*1を支配地にしていたそうです。
清衡の父・藤原経清は前九年合戦が始まる前の1047年、すでに東北在住の官吏としては異例の高位・従五位下を授けられていました。
経清は源頼義軍の武将として相当に名声があったようです。
その後、経清は安倍頼時の娘を妻に迎え、二人の間に清衡が生まれます。
経清が朝廷での身分を捨てて安倍一族に合流したとき、領地として与えられたのが現在の奥州市江差辺りでした。
ここには経清の墓か、あるいは経清を慕うものが建てたらしい塚があります。
経清が従五位下だったのにちなんで、五位塚と呼ばれています。
清衡が安倍でも清原でもなく藤原を名乗ったのは、父・経清が抱いた東北への思いを継ぐ意思のあらわれです。
経清は蝦夷ではないので、客観的な目で東北を見ていました。
そしてあまりにも源氏のやり方が理不尽だと憤りを感じて、前九年合戦で安倍氏に加担しました。
清衡には、父親と同じように、東北の自治を守りたいという思いがありました。
だから、姓を藤原に戻したのでした。
へつづく
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