おおはたまちができるまで~南部のはなし~71
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
根城南部氏五代の誠忠
帰路についた北畠顕家(1)
尊氏が京都を落ちていったので、天皇はさっそく京都に帰りました。
そしててがらのあった奥州の結城宗宏ほかの者に、それぞれ賞を与えました。
顕家が参議従二位、鎮守府大将軍に任ぜられ、またこれまでいつも顕家と苦労を共にしてきた義良親王も、元服をして「陸奥大守(おおのかみ)」となり、顕家は「陸奥大介(おおのすけ)」になりました。
「大介」というのは「大守」の次で、陸奥守の上の位です。
こうして官軍の将兵がほっとしたのもつかの間、九州に落ち延びていった尊氏は、たちまち西国で大きな勢力を得て、早くも延元元年(建武三年/1336)四月三日には博多を出発して東上をはじめました。
この尊氏東上の情報が伝わるとまた関東・奥州方面でも、足利方に味方する者が多くなりました。
斯波家長が、鎌倉で、尊氏の長男・千寿丸をたてて足利勢を集め、岩手県紫波では斯波氏の一族・兼頼が中心となって、足利方をまとめていました。
福島県相馬郡でも兼頼の命令により、相馬光胤が小高城(常盤線沿線の小高町付近)を築き直し、兵糧を蓄えて長期戦の準備をしていました。
多賀国府の膝元でさえも留守家任(るす・いえとう)が、はじめ西上軍に加わって上京しながら、途中で心変わりして足利方についています。
関東や奥州がこんな状態でしたので、顕家は京都にいてゆっくりしているわけにはいきません。
天皇は顕家に「さっそく奥州に帰り、陸奥を鎮めるように」と命令を下しました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1