おおはたまちができるまで~南部のはなし~97
お世話になっております、シヨウx3です。
まるで北畠顕家を彷彿させる南部政長でしたが、さて…。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
政長の死(1)
その翌年正平元年(貞和二年/1346)に尊氏は多賀国府の石塔義房の代わりとして、一門の畠山国氏(くにうじ)と吉良貞家を奥州探題として多賀に赴任させました。
それはそのころ宇津峰と霊山(りょうぜん)に常陸から逃れてきた南朝方の残党が多くいるので、国府軍を強化してその残党を掃討するのが主なる目的でした。
ところがその霊山と宇津峰を攻撃するためには、背後の北奥で大きな軍事力を持っている南部政長の動きが気になります。
そこでまた尊氏は例によって政戦両様の策をたてます。
同じ年の四月十一日には政長に第四回目の勧降状を送りました。
「味方に加われば、本領はそのまま安堵する。」
というのです。
それでも政長は動きそうがないので、その年の十二月九日にはさらに、
「味方に参り、凶徒を退治すれば、賞は望みにまかせるであろう。」
と大きなエサを与えて、政長を引き入れようとします。
でも政長は相変わらずそれに応じようとはしませんでした。
それで仕方なく尊氏は、謀略作戦に出ていきます。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1