おおはたまちができるまで~南部のはなし~90
お世話になっております、シヨウx3です。
尊氏は政長をどう見ていたのでしょう。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
根城南部氏の五代・政長(4)
尊氏は、いつまでも南朝方として働く政長を、何とか味方に引き入れたかったようです。この年の三月に弟・直義の名で次のような降伏勧降状を送っています。
御方に参ずれば、本領の事定め置かるべくの旨、その沙汰(知らせ)あるべく、軍忠を抽んずべきの状 件の如し
暦応二年三月十七日 直義花押
南部六郎殿
味方に加われば、持っている領地はそのまま認めてやるという、降参のすすめでした。これと同じような勧降状は翌年の暦応三年、暦応四年、それから五年後の貞和二年(1346)四月、同年十二月と五回も政長に送られています。
特に最後の勧降状には
御方に参り、奥州の凶徒(悪者)を退治すれば、褒美は望みにまかせる
などど最大の条件まで示して勧誘をしています。
戦ではなかなか勝てないので、政治的に解決をしようとしたのでしょう。
しかしもちろん政長はこの勧誘に耳も貸しませんでした。
かえってその後暦応二年九月二十三日から十一月にかけては、貞光の本拠・岩楯や尾崎を攻撃しています。
この北朝年号暦応二年は、南朝では延元四年に当り、八月十六日に後醍醐天皇が崩御されたので、皇太子・義良親王が位を継ぎ後村上天皇となりました。
そして年号もその翌年(延元五年=暦応三年、1340)四月二十八日には興国元年と改めました。「国を興す」という当時の南朝にとってはふさわしい年号に変えたのです。
顕家の弟・陸奥大介顕信は、この年二月ごろ密かに吉野をたって六月には奥州に入り、福島県田村庄宇津峰に下りました。
ここは宮方の田村庄司宗季(むねすけ)の領地です。
目当てはあくまでも多賀の国府を占領し、京都を回復することにあったのですが、陸奥にも北朝に属する者が多く、なかなか思うようにはいきません。
余談になるのですが、この年津軽では大津波が襲来し、大きな災害を受けています。
八月十一日高さ数丈(十数㍍)の津波が、津軽を襲い、村々が飲み込まれて、死者十万に及んだといわれています。
そのため十三湊では福島城をはじめ神社仏閣がことごとく流失し、十三湖も浅くなり、十三湊は廃港になってしまったということです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1