おおはたまちができるまで~南部のはなし~69
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
根城南部氏五代の誠忠
第一回奥州軍の西上(2)
弟・脇屋義助の軍が尊氏軍に敗れたことを聞いて、義貞の陣中からも逃亡する者が多く、義貞の軍はいったん伊豆の国府(三島市)まで退き、ここで残った兵をまとめて、京都に引き返すことにしました。
尊氏は続いて国府に入り、直義と今後の対策を協議しましたが、結局これを追撃することにしたのでした。
遅れて駆けつけた顕家軍は、その尊氏の後を追い、さらに奥州探題に任ぜられていた斯波家長も、その顕家軍の後を追いかけて、四者の追撃戦になりました。
その頃は奥州もまた尊氏に従うものが多く、油断できない状況でした。
それで顕家は、師行には多賀の国府を守らせ、政長には北奥を守るようにと命令を出しました。
そしてこの西上線には、政長の子・信政が従軍をしています。
南朝方の糠部軍が西上したことを聞いて津軽の北朝勢もさっそく動き出しました。
建武三年(1336)一月七日、南津軽郡の藤崎城と東津軽郡の平内城を守っていた南部政長、成田六郎左衛門尉らを曽我貞光(光高の改名)が、安東家季や比内(秋田県大館)の浅利清連らと共に攻撃をしてきたのです。
だがこの戦では政長の奮戦により、貞光は左ひざに矢傷を負わせられ敗退しています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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