おおはたまちができるまで~南部のはなし~68
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回からは南北朝時代の南部氏と北畠顕家を中心に紹介していきます。
根城南部氏五代の誠忠
第一回奥州軍の西上
「中先代の乱」のあと、北条時行から再び鎌倉を奪い返した尊氏兄弟はそのまま鎌倉に居座り、天皇の命にも従わず謀反の態度を明らかにしました。
さらに建武二年一月の下旬には、新田義貞を討つためと称して、諸国から兵を募りました。
そのころ後醍醐天皇も、足利直義のために、皇子護良(もりなが)親王が殺されたことを知って大いに怒り、尊氏討伐の軍を派遣することにしました。
東海道と東山道の二軍に分け、東海道には尊良(たかなが)親王と新田義貞を、東山道にはシヨウ王と洞院実世(とういんさねよ)を大将とし、さらに奥州の顕家にも使者を送って、三方から鎌倉を攻めることにしました。
そしてこれまで尊氏に与えられていた官位は一切これを取り上げ、顕家は鎮守府将軍に任ぜられました。
三方から挟み撃ちをする作戦をたてたのですが、なにぶん京都からは遠い多賀ですので、使者の到着が遅れ、そのうえ奥州には、尊氏に心を寄せる者も多く、兵を集めるにも苦心をして、奥州軍の出発が遅れ、ついに両軍の決戦には間に合いませんでした。
途中には常陸(茨木健)に強力な佐竹軍がいて道を遮っていたのです。
ようやくこれを破り、鎌倉に入った時にはすでに鎌倉には足利勢はいませんでした。
尊氏は、はじめ討伐軍の情報を聞いても、しばらくは鎌倉にいて、戦の様子をうかがっていました。
東海道を下ってきた義貞の軍六万七千余のために、十二月五日直義軍が敗れたのを聞いて、ようやく動き出しますが、わざと東海道を避けて大軍を率いて芦ノ湖の北にある足柄峠に向かいました。
この方面には義貞の弟・脇屋義助の軍が進軍中でしたが、尊氏の大軍に遭い、十二月十一日「竹の下の戦い」で苦戦に陥り、その上味方の陣から尊氏に内通する者が出たため、前後から挟撃を受け、ついに十二日大敗してしまいました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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