おおはたまちができるまで~南部のはなし~66
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく14です。
みちのくの新政14
南北朝の所属に苦労した十一代・信長01
南部氏宗家(本家)は、初代光行の父・遠光以来代々鎌倉幕府に仕えてきました。
しかし分家の方は、光行の六男・実長が、日蓮の影響を受けて、その後代々反幕府方(朝廷方、宮方)として活躍しています。
同じ南部氏でありながら、本家は幕府方(武家方)、分家は宮方として百五十年近くもすごしてきました。
ところが元弘三年(1333)五月に北条高時が義貞らに攻められて、東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅んでしまうと、それまで幕府に仕えてきた多くの家来たちは、一夜にして領地を奪われ、世は全く逆転してしまいます。
長年幕府に仕えてきた南部氏宗家も、やはり同じ運命を逃れることはできませんでした。
第十代・茂時が鎌倉で自害をしたため、その後を弟・信長が継ぎましたが、それはただ十一代を継いだというだけで、領地も軍勢も持たない落武者のようなものでした。
だから信長は、名誉ある南部氏の家名を存続するために、どうしたらよいかだいぶ悩んだと思います。
幸い糠部には南部氏の支族がいたので、とにかく鎌倉を逃れ、しばらくの間は、その支族を頼って、民間に隠れ住んでいたといわれています。
「盛岡南部系図」によれば
兄茂時鎌倉に死す。邑*1除かる。
信長旧族を頼り、糠部に潜在す(隠れていた)。
元弘三年十月参議源顕家、陸奥の国司に任じ、皇子義良を奉じて国中を鎮撫す(とりしずめた)。
信長主として馬鷹を献じ(奉り)款を納る(よしみを通す)。
これより一意王家(朝廷方)に勤む。
と書かれています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:ゆう=領地