こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~62

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南北朝時代のみちのく10です。

 

 みちのくの新政10

建武新政の乱れ

建武元年八月、京都の二条河原に次のような落書きが張り出されました。

 

 このごろ都にはやるもの  夜討、強盗、謀綸旨(にせりんじ)

 召人(めしゅうど)、早馬、虚騒動  生頸、還俗、自由出家

 俄大名(にわかだいみょう)、迷者  安堵、恩賞、虚軍(そらいくさ)

 本領はなる訴訟人  文書入れたる細葛(ほそつづら)

 追従、讒人(ざんにん)、禅律僧  下剋上する成出者

 きつけぬ冠(かんむり)、上の絹

 持ちもならわぬ笏持って  内裏まじわり珍しや

 

顕家たちが東北で、新政実現のため奔走していたころ、都の情勢はこのように混乱を極めていました。

火つけ、強盗、辻斬り(人殺し)など珍しくありませんでした。

その原因は、政権を握った後醍醐天皇と、当時の実力者・足利尊氏、それに天皇の片腕として活躍していた護良(もりなが)親王の三人が、それぞれ親政についての考えが違い、不和・対立を続けていたからでした。

 

天皇はあくまでも平安時代後醍醐天皇のころ)のような君主専制政治を実現しようとし、足利尊氏はそれとは反対に、鎌倉時代と同じ武家政治を再興し、自分が征夷大将軍になろうとしていたのです。

護良親王は早くもその野望を見抜き、武力を用いても尊氏をおさえようとしていました。

しかし軍事力では大差があるので、親王は密かに令旨*1を発して、兵力を集めようとしていました。

でもその新王の動きを知った尊氏は、ひそかに天皇に、「親王が兵力を集めているのは、謀反を起こして、政権をねらう野心があるからに違いない。」と告げ口をしたのでした。

天皇はすっかりその言葉を信じてしまいます。

建武元年(1334)十月二十二日の夜、天皇は、何も知らずに参内*2した護良親王を、いきなり護衛兵に命じて捕えさせてしまいました。

捕虜になった親王は、尊氏によって鎌倉に送られました。

その頃鎌倉には尊氏の弟・直義(ただよし)がいて、恐れ多くも天皇の皇子・護良親王を土牢の中に閉じ込めてしまいました。

 

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みちのく多賀にいる北畠親房は、この話を聞いて、どんなに悔しがったでしょう。

親房と親王とは母方の従兄弟に当たります。

また親王にとって親房は、舅・婿の関係*3にもなっていました。

だから新王からの令旨を受け取った親房は、早速親王のもとに陸奥の兵を送っていたのでしょう。

親王が突然捕虜になった時には、供をしていた兵の中には、南部や工藤を名乗る者がいて、数十人の陸奥兵が同時に捕えられたともいわれています。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 


 つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

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*1:親王などの命令

*2:さんだい=宮中に上ること

*3:親王の妻は親房の娘