おおはたまちができるまで~南部のはなし~43
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
さて、安東氏の乱のあと、滅亡へと進んで行く北条氏と南部氏はどのような関係だったのでしょう。
今回からはその辺のところを進めていきたいと思います。
北条氏の滅亡と南部氏6
北条氏滅亡に殉じた茂時
南部氏の第十代・茂時は、第三代・時実の孫・義行の二男です。
正安三年(1301)甲斐の国で生まれ、幼名を孫二郎義時といいました。
南部氏の歴史書によると、茂時は常に鎌倉に勤務し、母が北条氏であったので、執権・高時の信任もたいへん厚かったといわれています。
元徳元年(1329)には従五位馬頭(うまのかみ)に任ぜられました。
これは北条氏の家臣としては、異常なほどの大出世です。
その茂時が元弘の乱では高時の命令により諸将と共に元弘元年(1331)九月に鎌倉を発ち、楠木正成が守る笠置山城攻防戦に参加したといわれています。
九月二十八日に笠置山城が欠落しているので、あるいは茂時は笠置山城の戦いでは、分家の波木井実継と敵味方に分かれて戦ったのかもしれません。
後醍醐天皇は、元弘元年九月に、笠置山城が落城した後、赤坂城に逃れようとして途中で捕らえられ、ついに翌年の四月には隠岐の島に流されました。
その後の南北朝鮮の経過はだいたい次のとおりです。
〈元弘の乱Ⅱ〉
元弘二 夏 護良(もりなか)親王吉野で挙兵、
全国の武将に令旨を発す
城を築く
12月 楠木正成、赤坂城を再び奪回する
元弘三 1/21 赤松則村、
1/29 高間行秀兄弟、
神戸の摩耶城で挙兵
1月末 幕府再び大軍(5万~30万)を
討伐に向かわせる
2月 土居道増、得能通綱らが
伊予(愛媛県)で挙兵
” 各所で激戦が続く
2/28 赤坂城再び落城
閏2月 吉野落城
名和長年を頼り、
船上山に籠もる
″ 西国の武士、
次々に船上山に集まる
(京都・兵庫県の中部)
で反旗を翻し,天皇方につく
新田荘生品明神前で挙兵
鎌倉軍を破る
” 鎌倉へ突入
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~44 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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