おおはたまちができるまで~南部のはなし~44
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
北条氏と南部氏の関係その2です。
北条氏の滅亡と南部氏7
北条氏滅亡に殉じた茂時2
新田義貞が、上野(こうづけ)の国新田(にった)の荘で旗揚げをした時は、一族、郎党(家来)わずか百五十騎にしかすぎませんでした。
でもその後、越後(新潟県)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)の源氏をはじめ、関東諸国や遠くは陸奥・出羽からまで反幕府方の武士たちが馳せ加わって、総勢は二十万七千騎にまでなったといわれています。
これを迎える幕府軍十一万余騎は、小手指原(現・埼玉県所沢飛行場付近)で戦いますが、敗れたため高時は、さらに弟・泰家(入道慧性)を大将として十万余騎を送り、五月十五日両軍の大決戦は、今の東京都府中市の南、分倍河原(分梅)で行われました。
しかしこの戦でも幕府軍は大敗し、ようやく鎌倉に逃げ帰りました。
これを追撃した義貞の軍は、今の藤沢市あたりで兵を三軍に分け、五月十八日、三方から鎌倉を攻めたてたのでした。
義貞は五月二十一日、二万余騎の精兵を率い、ちょうど引き潮の時間に合わせて、稲村ケ崎から波打ち際を通り、鎌倉市街に突入しました。
義貞が黄金づくりの宝刀を海に投じ、海神に祈ったら、たちまち二十余町(2㌔余)も海水が引いて、人馬が通れるようになったという逸話が残っております。
鎌倉軍は、思いがけない方面から攻撃を受けたので、すっかり混乱してしまいました。
そのうえ各方面から火の手が上がったので、ついに鎌倉中が火の海となり、さすがの北条軍も総崩れとなりました。
それで高時も、これが最後と観念し、五月二十二日、一族や身内の者と共に、北条氏の菩提寺である葛西ヶ谷(やつ)の東勝寺に入り、二百八十三名(あるいは四百数十名)の部下と共に自殺しました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~45 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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