おおはたまちができるまで~南部のはなし~40
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
安東の乱のつづきです。
北条氏の滅亡と南部氏3
津軽大乱と北条氏3
幕府としては、遠い津軽ではありますが、戦がはじまったとなると放っておくわけにもいきません。
正中二年(1325)六月
「又太郎季長の代わりに、分家の五郎季久を蝦夷管領職に任ずる。」という命令を下しました。
しかしこの判定に対して、又太郎側が承服するはずはありません。
両家の争いはこの命令によってかえってますます激しくなりました。
それで幕府ではこの争いを
「命令に従わない蝦夷の謀反」として、
翌嘉暦元年(1326)三月、工藤祐貞、足立時光らに命じて大がかりな季長討伐軍を派遣しました。
そして七月には季長を捕虜として、この乱はいったん納まりました。(一説では、季長を幕府に紹介するからと称して、幕府に連れ去ったともいわれています。)
しかしその季長が鎌倉で誅殺されたことを聞いて、季長の残党が再び反乱を起したのです。
すると幕府は翌年六月、宇都宮五郎高貞、小田尾張守高知(おわりのかみたかとも)らの四千騎を津軽に送り、再び討伐戦がはじまりました。
だが今度は、幕府のやり方に憤慨した安東氏の一族がみな結束し、これまで敵であった季久までが反乱軍に加わったといわれています。
それで戦はまさに津軽の大乱になったのです。
幕府軍は散々苦戦を重ねましたが、十月になって、ようやく和睦によってこの乱を納めることができました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~41 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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