おおはたまちができるまで~南部のはなし~46
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
「安東氏の乱」からはじめた北条氏の滅亡の記録も、逃亡のエピソードをひとつ紹介して次の南北朝時代に続けたいと思います。
北条氏の滅亡と南部氏9
入道慧性を案内した南部太郎
南部の歴史書によると「茂時の母は北条氏」ということになっています。
その母、つまり義行の妻はいったい北条氏の誰の娘であったのかははっきりしません。
けれども茂時の父、義行もやはり北条氏に仕えて、高時やその弟・泰家(入道慧性=にゅうどうえしょう)にはたいへん信頼されていました。
それで北条氏のだれかの娘を妻に迎えたということも全くあり得ないことだとはいわれないようです。
「参考太平記」によると、その義行について次のような話が伝えられています。
北条氏の一族が東勝寺で自殺をした時、高時の弟・四郎左衛門大夫入道慧性*1が、腹心の部下を集めて言うには、
「我等は奥州に逃れて、再び天下を覆す謀をすすめようではないか。」と。
そして案内役に選んだのは奥州の地理に明るい南部太郎と伊達六郎の二人でした。
二人は快く引き受け、身なりを兵の姿に変えて、代わりに兵には甲冑を着せて馬に乗せ、供の者には皆、新田義貞の中黒の笠符*2をつけた笠をかぶせたというのです。
そして慧性は輿に乗せて、血染めの帷子かたびら=鎧の下着で輿を覆い、あたかも新田方の武士が負傷をして、国に帰る風を装って、わざと遠い武蔵の国を通り、無事奥州に逃れました。
この南部太郎というのは、「嫡家系譜」 *3によると、茂時の父・義行ということになっています。
南部宗家の系図によっても、彦太郎を名乗っているのはこの南部伊予守義行と、その長男・義重だけです。
このように奥州への案内役に、南部太郎が選ばれたということは、やはり南部氏の者は、糠部との間を何度も往復して、伊達氏同様、東北の案内には明るかったからなのでしょう。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
以上が北条氏滅亡までの記録でした。
結局、南部氏もまたエミシと蔑まれた東北の人々同様、幕府に振り回された、悲劇の一族なのかもしれません。
そして時代は南北朝時代に入っていきます。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~47 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]