おおはたまちができるまで~南部のはなし~47
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代に入っていきます。
南北朝時代の南部氏1
南北両朝に分かれた南部氏一族1
北条氏が滅亡した元弘三年から二十三年前の延慶三年(1310)五月、南部氏三代・時実の孫、五郎次郎時長と、その弟・師行(もろゆき)、政長の三人は、従兄弟の南部三郎次郎武行との間で、時実の遺領を巡って訴訟事件を起こしています。
この事件は時長たちの父・政行と叔父・時実から譲られた南部郷の内村*1を時長兄弟の末の弟・資行(すけゆき)が独占しようとしたことから起きた事件です。
もともとこの土地は、政行親子と宗実親子が、それぞれ二十余年交替で領有することになっていたものです。
政行には四人の子がありましたが、そのうち上の三人は先妻の子で、末っ子の資行は後妻の了心尼(りょうしんに)の子でした。
たまたまこの土地が、時長兄弟の領有することになった延慶三年(※時実死後四十六年)に、了心尼は政行の遺言と称して、我が子資行に、この土地を独り占めさせようとしたのです。
それで時長たちは了心尼の不法を、遺言書偽造の罪で幕府に訴えたのでした。
ところが、訴えられた了心尼もさるもので、その頃幕府に仕えて、刑部亟に任ぜられていた資行らの従兄弟・武行を頼って、今度は逆に時長らを訴えたのです。
その武行は、内管領・長崎円喜の一族で、長崎三郎左衛門思言という者の娘婿でした。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~48 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:うちのむら=田畑・山林わずか八町二段ともいわれている