おおはたまちができるまで~南部のはなし~63
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく11です。
みちのくの新政11
中先代の乱01
中央の情勢が混乱していたのですから、その影響が地方に及ばないはずがありません。
鎌倉幕府滅亡のとき地方に逃れた北条氏の残党があちこちで乱を起こしました。
前に紹介した津軽の乱もその一つですが、そのほかに南関東、北九州、日向、越後、紀伊、長門、伊予、信濃など、ほとんど全国的に北条氏残党の乱が起きています。
特に建武二年(1335)六月には、天皇のお膝元・京都でさえも、反朝廷派の陰謀事件が発生しました。
それは幕府支持派であった公卿の西園寺公宗(きんむね)が主謀者で、武士としてそれに協力したのは、あの南部太郎(義行/茂時の父)が案内して奥州に逃れた、北条高時の弟・泰家でした。
泰家は信濃(新潟県)にいる高時の次男・時行と連絡しあって、同時に兵をあげる計画でした。
だが公宗の弟・公重(きんしげ)が天皇方にそれを密告したため、この一味はたちまち捕らえられてしまいました。
京都の陰謀はこうして失敗に終わりましたが、信濃にいた北条時行は、翌七月に兵をあげ、新政に不満を持っていた関東や奥州の豪族たちが多く時行軍に加わり、総勢五万余騎になったといわれています。
その頃鎌倉を守っていた足利直義は、その勢いに乗った時行軍のために各地で敗れ、ついに時行は建武二年七月二十五日に再び鎌倉を占領しました。
この時行の乱は「中先代の乱」と呼ばれています。
中先代というのは、北条氏が執権であった鎌倉時代を先代といい、後の足利氏の時代を後代といったので、この時代の代はその中間であったので「中先代」と呼ばれています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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