こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~49

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

今回は南北朝時代の南部家の活躍を見ていきます。

 

 南北朝時代の南部氏3

鎌倉攻めに参加した南部氏一族

目安状ではっきりわかることは、時長親子をはじめ、師行、政長の兄弟が天皇方の味方として活躍をしたことです。

新田義貞が上野(こうずけ)で兵を挙げた時には、政行の長男・時長は宗家の長男・義重、仲行、茂行、信行らと共に、甲斐から一族を率いて、義貞軍参加のために駆けつけました。

またその頃政長は奥州にいましたが、義貞からの使いを受けたので、部下百七十騎を率いて関東に向かい、五月十五日に武蔵の国(東京都)の堀金(ほりがね)で義定に合い、味方に加わりました。

これは恐らく政長兄弟の義父・長継の妻が、新田義貞の叔母であったばかりではなく、前の資行との争いで、幕府に反感を持っていたからでもあったと思われます。

そしてその翌日の十六日には、分倍の決戦に参加、入道慧性軍を破り、そのまま鎌倉に突入しています。

 

なので、この時の鎌倉攻防戦には、宗家側の義行・茂時・武行らは北条方として働き、義重・仲行・茂行をはじめ、分家の時長・行長・政長らは義貞軍に加わって、同じ南部氏の一族が、敵味方に分かれて戦ったことになります。

師行はいったいその頃何処にいたのでしょうか。

同じ年の十月に師行が、北畠顕家と共に奥州に下っているので、おそらくその頃は京都方面で、楠木正成の守る千早城あたりにでもいて戦っていたのでしょうか。

それともまた甲斐の国も南北両朝に分かれて、対立を続けていたといわれているので、あるいは兄・時長に代わって本領を守っていたのかもしれません。

ともかく政長は、その翌年建武元年五月三日に、後醍醐天皇から功により、甲斐の倉見山(中野入道跡地、在家三軒、畠地町屋等八千石)の領地を賜っています。在野というのは主人の農地を耕す農家の一族の事です。

ただその政長が、奥州のどこから関東に駆けつけたかということは、南部の歴史を考える上では大切なことです。

 一説では、宮城県伊具郡に、初代・実長の妻の領地があったともいわれているので、あるいは宮城県にいたのかもしれません。

でもまた糠部には、昔から南部氏の領地があったといわれているので、やはり糠部のどこかにいて、義貞の使いを受けたのかもしれません。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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おおはたまちができるまで~南部のはなし~50 - こめいがねんど

へつづく 

 

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