こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~45

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

北条氏と南部氏の関係その3です。

 

北条氏の滅亡と南部氏8

北条氏滅亡に殉じた茂時3

高時が自決したのは三十一歳だったといわれています。

その数百名の中には、おそらく守時連署*1を務めていた北条茂時も入っていたのでしょう。

北条茂時というのは、第十二代執権・煕時(ひろとき)の子で、母は九代執権・貞時の娘でした。

そしてその茂時は、北条氏最後の執権・守時の連署を務めていたのです。

 

南部茂時もその日、北条氏に殉じて自刃をとげたといわれています。(三十四歳)

今でも遊行寺の裏山には、茂時の墓と伝えられる墓石が残されています。

当時は敵方の武将であったので、おそらく寺としても人目につかないように、簡単な目印だけをたてていたのではないでしょうか。

今の墓石がたてられたのは、よほど後年になってからのようです。

 

南部茂時は、北条茂時と同じ日に鎌倉で自殺をしているので、歴史の上ではよくこの二人が混同されがちのようです。

「右馬権頭(うまごんのかみ)茂時」(北条茂時)は、糠部九戸の領主であったのですが、それを南部茂時が九戸の領主であったとしたり、

「南部氏には茂時という人物が実在したかどうかわからない」

などという、つまり茂時一人説が唱えられたりしています。

 

このように南部茂時について、いろいろな疑問が出ているのは、その頃の太平記の中の記事に誤りがあるからです。

太平記には、高時自殺の場面を次のように書いています。 

「一族及び家臣の人々……各々腹を切る人もあり、自ら首をかき落とす人もあり、思い思いの体(ありさま)、ことにも哀れに見えたり。……そのほかの人々には金沢大夫入道崇顕……南部右馬頭茂時、長崎三郎左衛門入道思元……総じてその門家たる者二百八十三人、我先にと腹切って尾形に火をかけ……」

とはきり「南部右馬頭茂時」という名前が書かれています。

 

だからおそらく江戸時代の歴史家は、この記事を基にして南部茂時が「従五位・右馬頭」に任ぜられたと書いたのでしょう。

でも「右馬頭」は「右馬権頭」よりは一階級上の官名です。

北条氏の代々の執権職でさえ、たいてい「右馬権頭」(右馬頭の次官)か、「左馬(さま)権頭」です。

それに比べ、幕府の一役人である南部茂時が執権職より高い官名をもらうということはあり得ないことです。

だから同じ頃に二人の茂時があったとしても「右馬頭」という官名だけは誤りであったに違いありません。

 

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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おおはたまちができるまで~南部のはなし~46 - こめいがねんど

へつづく 

 

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奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

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*1:れんしょ=執権の補佐役