おおはたまちができるまで~南部のはなし~48
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代の南部家のゴタゴタな話のつづきです。
南北朝時代の南部氏2
南北両朝に分かれた南部氏一族2
了心尼が頼った、長崎円喜一族は内管領という北条氏の宗家である得宗家の執事で、その頃幕府内では大きな権力を持っていたので、この裁判は長引き、十八度も取り調べを受けましたが、ついに判定が下りませんでした。
そのうちに元弘三年五月に北条氏が滅び、国内の情勢がすっかり変わって、新しい天皇親政の時代になったので、時長らは改めて新政府にこの事件の解決を願い出ます。
世の中ではまさに180度の転換をしたため、時長ら兄弟三人は、天皇方として働いてきたので、公正な判断をしてもらうように、もう一度裁判のやり直しをお願いしたのでした。
目 安 元弘三年十二月
甲斐国南部郷以下所領の事
訴人(被告) 南部三郎武行
論人(原告) 南部五郎次郎時長
同 又二郎師行
同 六郎政長
一、武行契約不履行の罪遁れがたい事
一、延慶三年五月十八日の下文には不審がない事
一、武行朝敵の罪を遁れがたい事
武行は長崎左衛門入道思元の婿として、四郎左衛門尉高貞の軍に属し、茅屋城ちがやじょう=千早城?攻撃の合戦に参加した
一、時長、政長らは御方(天皇方)について事中をぬきんぜられた事
時長は最前の御方として馳せ参じ、関東において合戦の忠を致し、わが子行長も先人に参加し、若党数人は傷を負わせられる。
ついで政長奥州より御方に馳せ参じ、所々において合戦を致し、若党守家討ち死にをす。
この訴えを起こした元弘三年十二月には、論人のひとり又二郎師行はすでに、義良親王や北畠顕家の供をして、奥州に下っていました。
なので時長と政長が主としてこの裁判の当事者となっていたと思われます。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~49 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]