おおはたまちができるまで~南部のはなし~39
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
安東の乱に入っていきます。
北条氏の滅亡と南部氏2
津軽大乱と北条氏2
安東氏というのは、前九年の役(よもぎたむらができるまで20 参照)に活躍した安倍貞任の子、高星丸(たかあきまる)の子孫などともいわれています。
鎌倉時代になって北条義時の時、津軽の南部(内三郡)に曽我氏が代官として赴任したので、安東氏は藤崎から、いわゆる外三郡(馬郡、江流未郡、奥法郡)の十三(十三湖の沿岸、今の五所川原市史浦地区)に移されました。
しかし安東氏はその十三湊を根拠地として、海上交通により、京大坂方面とも取り引きをし巨大な利益をあげて津軽の大豪族となったのでした。
安東氏は蝦夷管領(北海道の管理職)も兼ねていましたが、この内乱は宗家の又太郎季長と、分家の季久との管領職をめぐる後継ぎ争い(または領地の境界争いなど)といわれています。
もともとこの管領職は、宗家と分家との三年交代制であったといわれていますが、季長は三年経っても分家に管領職を譲ろうとしませんでした。
それで争いになり、両家ではその裁定を幕府に訴え出ましたが、内管領の長崎高資は、双方から多額の賄賂*1を取っていたので、簡単にはどちらとも判定を下すことができませんでした。
それで両家とも幕府の判定を待ちきれず、互いに武力で争うことになり、元亨二年(1322)から戦がはじまりました。
しかし戦力が伯仲してなかなか決着がつきませんでした。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~40 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:六十八回にわたり砂金総額二百四十貫