おおはたまちができるまで~南部のはなし~70
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
根城南部氏五代の誠忠
第一回奥州軍の西上(3)
京都に向かった顕家軍五万は夜を日についで急ぎましたが、近江(滋賀県)に着いたときは、すでに尊氏が京都に入った二日後の一月十三日でした。
京都を守っていたのは新田義貞、弟の脇屋義助、楠木正成、名和長年らの軍でしたが、さすがに勇将の率いる官軍方は強く、一時は優勢でした。
しかし讃岐(四国・香川県)から駆けつけてきた細川定禅や、播磨(兵庫県)の赤松範資らの大軍が背後から手薄な脇屋義助の陣を攻めたので、守備陣の一角が崩れ、ついに天皇は比叡山に難を避け、尊氏が京都を占領したのです。
その後二日して奥州軍が近江に着いたので、天皇をはじめ官軍の将兵たちも、どんなに心強かったのでしょうか、歓喜して顕家軍を迎えたということです。
さらに先に尊氏を討つため、東山道に派遣されていた洞院実世の軍も信濃から近江に引き返して一月二十日坂本に着きました。
五万の奥州軍は三日もかかり、船で琵琶湖を渡り東坂本の行在所に参上したということです。
八歳に成長した義良親王と、しばらくぶりで対面した天皇は、感慨無量なものがあったのでしょう。
従軍した南部信政は、近江の観音寺を攻めて佐々木氏頼を破り、さらに細川定禅軍の三井寺で戦いました。
勢いに乗った官軍は、激戦の末、各所で足利軍を破り、ついに一月三十日尊氏は夜にまぎれて京都を脱出し、船で遠く九州に逃れました。
これまでエミシなどと侮られていたみちのくの兵が、天皇のために大いに働き勝利をおさめたということは、これがはじめてであり、また最後でもあったのです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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