こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~72

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南北朝時代の南部氏と北畠顕家のはなし、その5です。

 

 根城南部氏五代の誠忠

帰路についた北畠顕家(2)

顕家は三月下旬、再び奥州勢を率いて東海道を下ることにしました。

あの意気盛んな上京の時とは違って、戦死した者も多く、傷ついた者もあって、それは寂しい帰途であったに違いありません。

その上これまでいつも顕家を指導してきた父・親房も、この時には病気のために同行できませんでした。

しかし鎮守府大将軍となって、奥州を守らなければならない顕家は、ここで弱気になってはいられません。

帰る途中には多くの足利勢が待ち受けています。

関東に足を踏み入れた顕家軍は、早くも四月十六日鎌倉を出て藤沢市片瀬川に陣をしていた斯波家長軍の厳しい攻撃を受けました。

しかし激戦の末、敵の主力である相馬重胤(しげたね)と、同じ一族の胤康(たねやす)を討ち取って、まず奥州入りの第一戦では顕家が勝利を納めました。

鎌倉軍を破った顕家は、宇都宮から海道を通り、多賀の国府に帰ることにしました。

この沿線には小高城があり、「片瀬川の戦い」で討ち死にをしたあの相馬重胤の次男・光胤(みつたね)と、長男の子・松鶴丸らが守っています。

しかし相馬郡の多くは鎌倉に出陣していたので、留守の兵が少なく、光胤は討ち死にを覚悟して、松鶴丸を城から逃し、五月二十五日わずか一日の戦いで小高城は落城しました。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく 

 

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南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1