おおはたまちができるまで~南部のはなし~91
お世話になっております、シヨウx3です。
南部の猛者、政長と足利軍の駆け引きは続きます。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(1)
興国元年(=暦応三年)六月二十五日、足利直義は再び政長に勧降状を送りました。
それは戦に強い政長が、宇津峰の顕信に呼応して動き出すことを政治的に抑えるためでした。
だが政長はこの勧降状も全く無視したのです。
そして逆にその秋根城の軍団を率い、浄法寺から七時雨(ななしぐれ)山を越えて西根まで南下し、雫石氏の協力を得て西根に要塞を築きました。
この砦は足利方の斯波氏を攻めるための根拠地であったのです。
この知らせを聞いて宇津峰の顕信はどんなに心強く思ったかしれません。
さっそく中・北部の南朝軍と、南部の南朝軍が連絡をとりながら南北から多賀の国府を攻める作戦をたてました。
しかしその年もすでに旧暦の十二月で、東北では雪が深く兵を動かすことができません。そこで年が明けた興国二年(=暦応四年/1341)二月に、まだ雪が残る中を、早くも政長は活動をはじめました。
味方に加わった紫波郡の河村氏の協力を得て、厨川(くりやかわ)(盛岡市)で足利方の稗貫出羽権守を討ち取り、それから南下をしてついに斯波氏を滅ぼしました。
そしてさらに和賀に攻め入り、和賀氏一族が立て籠っている岩崎城を攻め、鬼柳二郎清義を討ち取りました。
この頃までの根城軍の活躍は全く破竹の勢いでした。
この南部政長の動きを、足利尊氏は黙って見過ごすはずがありません。
同じ暦応四年二月七日付で、第三回目の勧降状を政長に送っています。
しかし政長はそれでもこの南下作戦をやめようとしないので、ついに尊氏は最後の手段、武力で政長を征服しようとしました。
相模(神奈川県)の曽我師助に命じて津軽に下向させ、曽我貞光と共に大軍で政長の本拠地糠部を襲わせたのです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1