おおはたまちができるまで~南部のはなし~92
お世話になっております、シヨウx3です。
足利尊氏が南部政長にしかけていきます。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(2)
尊氏の命で曽我軍が糠部を襲撃したという急報は、ちょうど政長が和賀氏との戦いが終わり、これから三の迫に出陣しようとしていたころに届いたと思われます。
さすがの政長も、留守の兵しかいない根城が襲われるとなると、どうしても帰らざるを得ません。
南朝方としては多賀の国府攻撃は、今が絶好の機会であるので、政長は一部の兵をそのまま残して手勢を率い、急いで糠部に引き返しました。
南下を目指している南朝軍の中から政長が抜けることは、やはり大きな打撃であったようです。
そのうえ、顕信としては白河の領主・結城親朝(ちかとも、宗宏の子)の援助を得て、南北から国府を攻撃する計画でした。
しかしその親朝は父とは違い、忠義などよりは目前の利益しか考えないような人間であったようです。
だから再三交渉を進めましたが、まだ勝敗がわからない南朝のためには動こうとしませんでした。
奥州の南部には南朝方の伊達氏一族もいるのですが、領主の伊達行朝は、北畠親房と共に台風に流されて、常陸に上陸しています。
その常陸でも北畠親房から結城親朝に、何十回(現在残っている文書だけでも五十六通)も手紙をやり、南朝方に味方するよう誘いましたが、それでも親朝は態度をはっきりさせませんでした。
仕方なく顕信は、南北からの多賀攻撃をあきらめたようです。
宇津峰からひそかに葛西氏の領地石巻に移りました。
おそらく海路を通って石巻に入ったのでしょう。
そして顕信は興国二年九月に奥州の南朝軍、葛西・南部・滴石(しずくいし)・川村氏らの軍を率いて南下し、宮城の北部三の迫(栗原郡栗駒町と金成町との中間)で、多賀から出てきた石塔義房軍と対戦しました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1