おおはたまちができるまで~南部のはなし~93
お世話になっております、シヨウx3です。
南部政長が糠部に戻った南朝方・北畠顕信軍はこれからどうなるのでしょう。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(3)
南朝方がこの戦に勝つと、ほとんど国府を占領することになり、この戦の結果いかんを注目していた結城親朝も、おそらく宮方に味方するに違いありません。
常陸の小田城にいる北畠親房も、伊佐城にいる伊達行朝も大いにそれを期待し、奥州の南朝軍を合わせて、常陸の北朝勢を破り、第三次の西上軍を進めようと待ちかまえていたのです。
しかし政長が帰った後の三の迫では、どちらも兵力が均衡しているため一進一退を続け、一年経った興国三年(=康永元年/1342)九月になってもまだ勝敗が決しません。
両軍とも再三味方に援軍を送ってくれるよう呼びかけましたが、顕信方にはついにどこからも援軍は参りませんでした。
糠部に帰った政長も、津軽勢との戦が長引き、援軍どころではなかったのです。
でも石塔方には十月八日に、近くの金成郷の領主・岡本重親(しげちか)が手勢を率いて駆けつけてきました。*1こういう戦では、たとえ少数の兵でも新手が加わるとたちまち情勢が変わってきます。
南朝方でせっかく築いた館も次々に落とされ、ついに南朝方は大敗してしまいました。
主将の顕信はかろうじて逃れ、再び石巻の日和山城に逃げ延びました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
*1:この岡本重親については秋田の領主説と、海道軍説があります。