おおはたまちができるまで~南部のはなし~94
お世話になっております、シヨウx3です。
劣勢になった南朝方は…。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(4)
一方常陸の南朝方でも、興国三年から四年にかけて、小田城(小田治久・北畠親房)、関城(関宗祐・宗政・北畠親房)、伊佐城(伊達行朝・春日顕国)、大宝城(春日顕国)などで抵抗を続けていましたが、これまで態度をはっきりさせていなかった白河の結城親朝が、興国四年八月十九日に足利方に降伏してしまいました。
その結果小田城・伊佐城が落ち、最後に残った関城・大宝城もついに高師冬(こうのもろふゆ)に攻められて、同じ年の十一月十一日には両城とも陥落してしまいました。
北畠親房は守永親王・恒良親王と共に辛うじて船で吉野に逃れ、後に残った春日顕国は捕らえられて首を討たれてしまいました。
この間に三の迫を逃れた北畠顕信は、石巻の日和山城にいましたが、力と頼む葛西清貞が病死したため、一族の南朝支持が怪しくなり、顕信は石巻を出て岩手郡滴石城(雫石町)に移りました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1