おおはたまちができるまで~南部のはなし~86
お世話になっております、シヨウx3です。
南部のはなし86、合戦は終わり…。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
顕家・師行の戦死4
わずか九か月前、京都の奪回を夢見て顕家に従った十万の兵は、ついに望みも空しく、遠い異郷の地で全滅してしまいました。
顕家の父、親房は吉野にいて、顕家戦死の報を聞き、
さきだてし心もよしや中々に うき世のことも思いわすれて
と詠んでいます。
忠義の心一筋に浮世のことなど考える暇もなく、戦場の露と消えた顕家の気持ちが親房としては哀れでならなかったのでしょう。
顕家の母*1は顕家の死後、河内の観心寺に入って尼になりました。
そむきてもなお忘られぬ面影は うき世の外のものやあらん
今はすでに手も届かないあの世の人となったわが子の面影を、どうして忘れることができるだろうか。
また顕家の死後三年経ってから、この母が戦死した場所を訪ねました。
しかし悲しみのあまり、草の上に倒れ伏してしまったということです。
亡き人の形見の野辺の草枕 夢も昔の袖のしら露
母としては、まだこれからという二十一歳の若さで亡くなったわが子のことを思うと、見栄も外聞もなく、ただ草の上に泣き伏すだけの悲しさであったのでしょう。
でも歌を詠む術は知らなくても、遠い異郷の地に、わが子やわが夫を失った十万の兵たちの家族も、決してこの母に劣らない悲しみに耐えていたに違いありません。
北畠顕家の功績をたたえるために、今大阪市阿倍野区北畠三丁目七の二〇に阿倍野神社が祭られています。
そして本殿の傍らには功の宮と呼ばれる社もあります。
この社には南部師行をはじめ、阿倍野付近で戦死を遂げた多くの将兵の霊が祭られています。
また堺市の石津川のほとりには、顕家・師行および戦死者供養のための五輪塔が立てられています。
南北朝時代の哀史を知る人々は、この五輪塔やお宮を建てて、これらの人々の霊を慰めないではいられなかったのでしょう。
男山八幡宮(石清水八幡宮)に立てこもっていた春日顕国の奮戦も、それから一月半ほどの後、七月上旬までには終わっています。
顕国は奥州に逃れたといわれています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1