こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~81

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし81、青野原での第一戦を勝利した顕家軍はどう動いていくのでしょうか。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

奈良への転進

 青野原での第一戦を勝利した顕家はどう考えていたのでしょうか。

この第二線突破を避けて、垂井から方向を変えて伊勢路に入り、伊賀を越えて奈良に出る作戦をとりました。

この作戦変更が実は奥州軍にとっては最も不幸な運命を強いられる結果になったのです。

 

どうしてそれでは顕家が途中で作戦を変えたのでしょうか。

それにはいろいろな説がありますが、やはり顕家は第二線突破のために、これ以上味方から多くの犠牲者を出したくなかったのではないでしょうか。

進路を変えるにしても伊勢路ではなく北上をして新田義貞の軍と合流し、京都を攻める方法もあったのです。

でも当時の歴史書太平記」の作者は、その進路をとると、義貞が京都攻撃の第一の功労者となり、再び義貞による武家政治の時代が始まる心配があるので、それを顕家が嫌ったのではないかといっています。

また北条時行も従軍していましたが、新田義貞は、父・高時を殺した親の仇でもあるので、時行は義貞に味方をして、ともに戦をすることに反対したのではないかともいわれています。

 

それに戦場が京都に近い美濃なので、敵は次々に新しい軍を派遣することができます。

顕家としては第二線を突破して京都に迫ることは困難であると判断したのかもしれません。

それよりは奈良で勢力を回復して、一気に京都に攻め上ろうと考えたのではないでしょうか。

ただ伊勢路を通ると戦わずして奈良に着けると考えたのは、確かに誤った判断であったようです。

その伊勢路にも実は多くの北朝勢が待ち受けていました。

転進を始めてから奈良に着くまでには二十日ぐらいもかかっています。

その間に何回となく敵方の反撃を受けています。

 

ようやく奈良に着いた時には、すでに京都から高師直・高師冬、今川・上杉らの大軍が奈良に着いていました。

この大軍と二月二十八日に般若坂で戦いましたが、何しろ顕家軍は長い行軍と途中の激戦で人馬共に疲れきっています。

第一陣から第二陣までも敗れて遂に顕家は楠木一族の根拠地・河内の国(大阪府)に逃れました。

 

これでこれまで顕家と行動を共にしてきた義良親王は、結城宗宏に守られて吉野に逃れたということです。

またこの時南部氏宗家の十一代伊予守信長も親王のお供をして吉野に参上したといわれています。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

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つづく

 

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