おおはたまちができるまで~南部のはなし~77
お世話になっております、シヨウx3です。
南部のはなし77です。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
第二回奥州軍の西上(2)
その霊山をまた国府に入った奥州総大将・石堂義房(よしふさ)や佐竹義篤(よしあつ)、相馬親胤(ちかたね)らの大軍が包囲をして、全く動きがとれない状態でした。
しかしその時調度、折も良く、越前(福井県)にいた新田義貞が勢いを盛り返したという情報が奥州にも伝えられてきました。
それによって足利方が、どういう判断だったのか、急に囲みを解いてそれぞれ兵を引き上げてしまいます。
この機会を顕家が逃すはずはありません。
さっそく奥州の南朝勢に呼びかけ、西上のための兵を募りました。
この命に応じて集まってきたのは結城宗宏、伊達行朝をはじめ、糠部の南部師行、南部伊予守信長、津軽の工藤貞行、紫波郡の下山、桃生(ものう)郡の葛西清定、亘理(わたり)郡の武石高広、阿曽沼朝綱(ともつな)など約三万騎でした。
顕家は直ちに霊山を下り西上をはじめましたが、その途中からも多くの兵が加わり、白河の関を越える頃には、十万余騎の大軍になったということです。
これまで顕家の国宣(こくせん)により領土を安堵された武将たちが、みな自分の領土を守るために、この西上軍に参加をしたのでしょう。
しかし中央では足利軍の勢いが強く、果たしてこの戦に勝てるか、そして生きて再び郷里の土を踏めるのか、全く予想がつきません。
従軍した将兵には誰にも皆、そういう不安が胸の内にあったと思われます。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1