おおはたまちができるまで~南部のはなし~79
お世話になっております、シヨウx3です。
南部のはなし79、顕家に率いられた奥州軍が西上していきます。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
奥州軍の追撃
顕家に率いられた十万余騎の奥州軍は、白河を越えて関東に入りましたが、下野(栃木県)の小山城攻略に以外の日数がかかりました。
城主の小山朝郷(ともさと)*1は、鎌倉初期以来栄えてきた関東の名城です。
十三昼夜に渡る激戦の末、十二月八日ようやく落城し朝郷は捕らえられました。
奥州軍の次の目標は足利方最大の根拠地鎌倉です。
鎌倉には尊氏の子、千寿丸*2と、奥州管領の斯波(しば)家長が補佐役として守っています。
家長は武蔵(東京都)、相模(神奈川県)の兵八万騎を集め、利根川の線で防ごうと陣を構えていました。
川を挟んでの対戦となりましたが、足利方は意外にもろく、十二月十三日、わずか一日の戦いで敗れ鎌倉に退きました。
大勝を得た顕家軍は、武蔵の国府(東京都府中市)で五日間滞在し兵を休めました。
その間に顕家の勝利を聞いた宇都宮の豪族・宇都宮公綱(きんつな)が千余騎を率いて駆けつけてきました。
また上野(こうづけ、群馬県)の新田一族も、義貞の次男・義興(よしおき、二歳)をたてて、鎌倉を目指して南下してきます。
さらに先の「中先代の乱」で敗れた北条時行も、その後天皇の御許しを得て官軍方に加わり、伊豆から五千余騎を率いて、顕家の鎌倉攻めに参加をしてきました。
こうして十二月二十三日、奥州軍の他に北条、宇都宮の各軍も加わり、三方から一斉に鎌倉に攻め入ったのです。
激戦は二十四日、二十五日の二日間行われ、各方面で足利方が敗れ、これまで顕家の好敵手であった斯波家長は自殺し、総大将の千寿丸も三浦半島に逃げこみました。
顕家軍は、鎌倉で延元三年(1338)の正月を迎えましたが、休む暇もなく二日にはもう鎌倉を出発しています。
それから後、美濃(岐阜県南部)までの進軍は記録的な早さだったといわれています。
途中には駿河(静岡県東部)に石塔氏、遠江(とおとおみ、静岡県西部)に今川氏、三河(愛知県東部)には高氏などの足利軍がいて攻撃を受けましたが、それらを破ってわずか二十日余で美濃の国に着きました。
この快速ぶりは、これまでの例(義貞・尊氏)に比べても驚くべき速さだということです。
この快進撃は、何といっても東北産の駿馬*3にまたがる騎馬軍の突進によるものではないかと言われています。
怒涛のような勢いで京都を目指し進撃を続けたのでしょう。
この奥州軍には徒士兵*4がなく、すべて馬を使った騎馬軍団ばかりだったようです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1