おおはたまちができるまで~南部のはなし~64
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく12です。
みちのくの新政12
中先代の乱02
北条時行の軍は勢いに乗って鎌倉を占領しましたが、その後わずか二十日ばかりで、再び尊氏や直義らの軍に追われてしまいます。なので「二十日先代」などともよばれています。
ところで尊氏の弟・直義(ただよし)はこの戦では、鎌倉の北三十㌔余の井出沢(東京都町田市)で戦っていましたが、敗れたため、そのまま夜にまぎれ、三河(愛知県東部)をさして逃亡しました。
しかし抜目のない直義は逃げる際にも、鎌倉に監禁している護良(もりよし)親王の事は忘れませんでした。
時行が鎌倉に入った後、護良親王を大将軍として、再び大きな勢力を得ることを恐れたのです。
直義は密かに家来の渕辺義博(ふちべよしひろ)に命じて、再び鎌倉に引き返させました。
そして護良親王は哀れ二十八歳の若さで、その義博によって、暗い土牢の中で最期を遂げたのでした。
「時行が鎌倉を占領した」というニュースは、たちまち奥州の各地にも伝えられたことと思われます。
これに応じて立ち上がる時行の党があちこちに現れました。
建武二年八月十三日、北畠顕家は、南部氏・伊達氏に命じてこれらの反乱軍を平定させています。
「八戸系図」には師行の弟・政長が国司(顕家)の命により兵を出して、所在に(いたる所で)賊を討つと書かれています。
また「南部世譜附録」によれば、信長(南部宗家十一代)の弟・信行も国司軍を率い、津軽山辺(黒石市付近)で戦い、殊功をあげたといわれています。
鎌倉を占領した時行に応じて動き出した北条氏の残党を、南部政長や宗家の信行・伊達氏らが、顕家の命によって討伐したのでした。
同年九月一日に政長はその戦功を賞されています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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