おおはたまちができるまで~南部のはなし~57
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく5です。
みちのくの新政05
根城四代・師行の活躍02
次に北畠顕家は命令書を翌年の二月十八日付で、師行宛てに発送しています。
信濃前司入道行珍申す。
早く彼の群に代官を沙汰(配置)さられるよう国宣候也
よって執達(通達)件(くだん)の如し。
元弘四年二月十八日 大蔵権少輔清高
南部又次郎 殿
久慈郡を与えられた入道行珍(二階堂行朝)も、国府の要職、式評定衆のひとりです。
だからこの文書も宛名は南部師行になっていますが、あるいは前の下文と同様、顕家から直接本人に伝達されたものであるかもしれません。
この久慈郡と東の門(かど)の新領主・入道行珍は、その後代官の派遣を辞退しています。
それで顕家は再び六月十二日付で師行に三浦介(のすけ)入道(五戸の新領主)が結城七郎(七戸の新領主)の代官を赴任させるよう督促をしています。
後醍醐天皇は、親政がはじまった元弘四年一月二十九日から年号を建武元年と改めました。
先の文書は元弘四年二月十八日の日付になっていますが、これはおそらく、その改元の通知が多賀に到着したのは、この文書を発送した後だったのでしょう。
師行が糠部に赴任し、国代として活躍した根拠地は「根城」ということになっています。
師行は建武元年春、八戸の石懸(いしがかり)村八森に館を築き、そこを基地として北奧の各地に顕家の命令を伝達し、管内の管理に当たりました。
師行が多賀を出発して糠部に着いたのは、早くても十二月の半ばすぎであったと思われます。
それから奉行所の適地を選び、館が完成したのは翌年の春ということになっています。
それまでの三、四か月間は師行は、築城の指導をしたり、国代としての仕事もしなければなりません。
おそらく忙しい毎日を過ごしたことでしょう。
だから師行は築城が完成するまでの間は、家臣と共に一時糠部のどこかに仮の宿をとっていたのではないでしょうか。
そういう身寄りのものが糠部にいたからこそ、顕家たちも特に師行を選んで糠部の国代として抜擢したのかもしれません。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:こまかな事情