おおはたまちができるまで~南部のはなし~18
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏二代目・実光(さねみつ)の話、第七話です。
糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その7
承久の乱と実光
承久の乱は、院政(上皇や法皇が行う政治)の権力を高めようとする後鳥羽上皇と、武家政治を守ろうとする北条義時との間に起きた武力衝突でした。
承久元年(1219)に実朝が暗殺されたので、上皇はこの機会に再び朝廷の勢力を盛りかえそうとしたのですが、その計画はみな失敗に終わりました。
そしてついに武力にうったえることにし、承久三年五月十四日に義時追討の令旨*1を下しました。
義時は兵を三道に分け、東海道には長男・泰時を、東山道には甲斐源氏の武田信光・小笠原長清、関東の小山朝長(おやまともなが)らを大将軍として、京都を攻撃することにしました。
その総勢は十九万騎と言われています。
途中の尾張や宇治川などで戦が行われましたが、上皇軍はもろくも敗れてしまいます。
六月十五日には東軍の荒武者たちが都に乱入したといわれています。
さて、実光はこの乱に参戦したのでしょうか?
実光が「一門を率い糠部に下向した」のは承久元年と伝えられています。
領主としてしなければならない仕事が山積みでした。
兄弟たちに領地を分けてやらなければなりません。
これも、どこを誰にに与えるかということになると、なかなか難しい仕事です。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~19 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]