おおはたまちができるまで~南部のはなし~55
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく3です。
みちのくの新政03
国府政治の復活03
尊氏を警戒した後醍醐天皇は、顕家たちを東北に派遣してからわずか半月後、今度は尊氏の弟・直義(ただよし)を相模守に任命し、十二月には成良親王をそえて鎌倉に下し、関東十ヵ国を管理させることにしました。
これは尊氏をなだめるための妥協策であったともいわれています。
多賀に着いた顕家は、直ちに東北の行政府、多賀国府の人事機構を発表しました。
一、式評定衆(最高合議機関)八名(公卿二名のほか武将六名)
二、引付衆(訴訟事件の処理機関)二十一名(一番から三番まで七名ずつの交代制)
三、政所執事 一名 山城左衛門大夫顕行
五、寺社奉行 二名 安威左衛門大夫 薩摩掃部大夫入道
六、安堵奉行 二名 肥前法橋 飯尾左衛門二郎
七、侍 所
国 代*1
糠部奉行 南部師行
鹿角奉行 成田小二郎左衛門尉頼時
みちのくはたいへん広い区域なので、顕家は、陸奥と出羽の北部を四つの区域に分け、各地に国府の支所として郡奉行所をおきました。
そのうち糠部奉行所の国代が南部師行でした。
奉行所には、郡奉行と郡検断があって、軍事・警察の仕事は検断が行うことになっていました。
しかし糠部の場合は、国代の師行が検断の仕事も兼ねていたようです。
天皇親政の世になったので、「たとえ領主と称し、幕府の認証を有すといえども、綸司*2・国宣*3を所持せざれば許容すべからず。」という厳しい命令が出されました。
だからこれまで幕府から任命されていた代官職や所務代官の役もすべて無効になり、地方には多くの領主不在の土地、欠所地ができました。
その欠所地にまず新しい領主を選んで赴任させるのが、国司や国代の大事な仕事でした。
ただし「土民(百姓)においては罪科(罪)あるべからず。まず安堵(安心)せしめ、地下(じげ)を荒らすべからず。」というふれを出したので、農家には何の不安もありませんでした。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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