おおはたまちができるまで~南部のはなし~56
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく4です。
みちのくの新政04
根城四代・師行の活躍01
北畠顕家たちが多賀に着いたのは、元弘三年(1333)十一月二十九日(今の12月末)です。
東北北部ではやがて深雪期に入るので、おそらく師行が任地に向かって出発したのは、十二月早々だったと思われます。
顕家は着任して間もなく、早くも活動を開始しています。
十二月十八日には、次のような下文(くだしぶみ)を出しました。
下す 糠部郡
早く結城参河前司親朝(ゆうきみかわまえのつかさちかとも)を、当郡(糠部)の内九戸を領知せしめ、貢馬*1のほか懈怠けたい=怠り無く行なわしむ可きよう、仰せられる所、件の如し〈大意〉
元弘三年十二月十八日
※結城神社所蔵文書
この文書は、顕家が直接結城親朝に命じた下文(下知状)になっています。
このほかの命令書は、いわゆる国宣というもので、すべて国代である師行宛てに命令を下し、それから本人に伝達させたのでした。
なぜこの命令書だけは国代を通さずに、本人に直接下したのでしょうか。
師行が十二月早々に多賀をたったとしても、糠部への着任は早くても十二月の半ばすぎになります。
あるいは途中にはまだ北条氏の残党や部下がいて抵抗を受けるかもしれません。
仮に無事糠部に着いたとしても、糠部に奉行所を設置するには、それからまた何日も日数がかかります。
だから顕家はそれだけの余裕を見て、最初の命令書だけは、直接結城親朝に「下文」として命じたものと思われます。
親朝は武評定衆に任ぜられた結城宗宏の子です。
だからこの文書には、そのような顕家の細かい配慮が見られます。
またこの文書を見ても九戸の旧領主は、南部茂時ではなく、右馬権頭といわれた北条茂時であったことがわかります。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:くめ=税金として馬を政府に納めること