おおはたまちができるまで~南部のはなし~59
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく7です。
みちのくの新政07
根城四代・師行の活躍04
師行は顕家の命により、北奥の各欠所地に新しい領主(給人)を配置しました。
しかし師行自身に与えられた領地というのは、鹿角郡の欠所地少々と、津軽外ヶ浜内摩部(内真部)の外、未給地六か所だけです。
顕家の信望が厚く、国代としての重要な任務に就いていた師行でしたから、これだけの領地しか与えられなかったとは思えません。
六月十二日の顕家文書(包紙の裏書)にも師行には
「…且つ御辺(お前)にも、つかわせるべき便宜の地、何村にしても当郡内(糠部郡)に所望(希望)あらば申すべし…」
とわざわざ言ってよこしているくらいです。
石懸村八森に城を築くにしても、自分の領地でもないところに築城するわけにはいきません。
だから奉行所の用地については、下向する前に十分顕家と話し合わされていたのではないでしょうか。
四月三十日付の文書は、その話し合いを裏付けるものであったと思われる
「一戸・八戸・三戸の欠所地処分は、南部又二郎殿、戸貫出羽前司殿、河村又二郎入道殿、両三人に委せる」という委任状でした。
師行はこの文書を受け取った後間もなく、三戸の横溝新五郎入道跡と思われる欠所地の実態調査を行っています。
そしておそらく三人で話し合いをした結果、八戸と三戸が師行の領地となったので、旧領主である会田氏や大瀬氏との境界などを調査させたのでしょう。
またこの文書では、領地を預かるのは又二郎ですが、宛名は又次郎になっているので、この又二郎は、宗家の十一代・又二郎信長ではないかという説もあります。
しかしその頃の文書や記録にはよく、次と二と間違って書くような例が多くありました。
建武元年八月二日の国宣や、また同じ三日の遠野に関する国宣でも、やはり宛名の又次郎を誤って南部又二郎殿と書いています。
とにかく、この四月晦日付の文書によって、三戸の横溝新五郎の跡地が、南部師行の領地になったと考えてよいのではないでしょうか。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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