おおはたまちができるまで~南部のはなし~60
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく8です。
みちのくの新政08
津軽の兵乱01
師行が糠部に下向した元弘三年(1333)の末ごろから、津軽では再び同族の内乱がはじまっていました。
津軽には、鎌倉時代のはじめに、北条義時が地頭職を命ぜられ、家臣の曽我時広を代官として平賀郡の岩楯(いわだて)村におきました。
ところがその曽我氏が三代目になり、宗家と分家とに分かれ、宗家の曽我氏は武家方につき、分家の曽我氏は朝廷方について争いました。
元弘三年の末、鎌倉から逃れてきた北条氏の一族・名越時如(ときゆき)と安達高景が、その大光寺曽我氏(宗家)を頼って、ともに大光寺城に籠もりました。
それで岩楯曽我氏(分家)の光高は朝命を受け、工藤貞行(工藤祐経の六代の孫)を味方につけてこれに攻撃を加えたのでした。
そして翌建武元年一月に大光寺城が落ち、武家方は石川城(弘前市石川)に逃れました。
それで国司・北畠顕家は、さらに多田貞綱、伊賀貞光、南部師行らの援軍を送って光高を助けたので、その石川城も五月二十一日に落城しました。
武家方はさらに持寄城(中津軽相馬村紙漉沢付近)によって抵抗を続けましたが、この戦には安東氏も朝廷方に加わったので、ついに十一月十九日に持寄城も陥落しました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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