こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~80

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし80、快進撃を続ける顕家率いる奥州軍と足利軍の天下分け目の一戦が始まります。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

青野原の戦い

 さて奥州軍が来ると聞いた尊氏は、琵琶湖の東青野原(あおのはら、岐阜県不破郡垂井町付近)に強力な足利軍を配置して防衛の陣を敷いていました。

青野原というのは、後に徳川家康石田三成が天下分け目の決戦をしたあの関ヶ原のことです。

南北朝時代にもこの青野原の戦いは、奥州軍と足利軍との勝敗を分ける決戦場になったのです。

兵の数では顕家軍の方は足利方よりはるかに優勢であったといわれています。

ただ鎌倉で敗れた千寿丸(義詮)配下の軍が、その後再び鎌倉に集まって、顕家軍の背後から追撃してきていました。

戦場間近になると、奥州軍は両面から挟み討ちをされる危険があります。

そこで顕家は、青野原の手前の赤坂あたりから急に向きをかえ、約十二㌖ほど引き返して、今の揖斐川を前にして、先ず迫ってきた鎌倉軍を壊滅しました。

それから顕家は再び青野原に向かい、いよいよ天下分け目の戦が始まります。

 

 この激戦は延元三年(1338)一月二十四日から五日間続けられましたが、奥州軍の各隊はついに敵の第一線(高師冬、土岐頼遠今川範国の各軍)を打ち破りました。

このとき、南部師行は結城宗宏と共に、敵の今川範国隊を足近(あちか)川にまで追いつめ、対岸に追い払ったということです。

青野原での第一戦は一方的に奥州軍の勝利に終わりました。

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 しかし足利方では、青野原西方の黒地川(現在不明)の東岸に、第二線として強力な背水の陣を敷いて待っていました。

この第二陣さえ突破すれば、あとはもう京都に迫るだけです。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

つづく

 

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