おおはたまちができるまで~南部のはなし~76
お世話になっております、シヨウx3です。
南部のはなし~南北朝編~を再開いたします。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
第二回奥州軍の西上(1)
北畠顕家が多賀の国府に帰った頃、すでに尊氏は京都に入っていました。
その情報が次々と伝えられてきて、奥州でも北朝側の勢いがますます盛んになり、顕家もだんだん多賀を守り切ることが難しくなってきました。
それでも顕家は建武三年(1336)十一月十五日に南部政長に次のような手紙を送っています。
「国府は大丈夫だから、お前は中央の情報に惑わされることなく、糠部をしっかり守るようにせよ」と。
しかし天皇が吉野に移られたので、尊氏に味方をする者がさらに多くなり、さすがの顕家も国府を守り切れなくなりました。
翌延元二年(建武四年/1337)一月八日に義良(のりよし)親王を奉じて、結城・伊達勢に守られながら、多賀から南約九十㌖もある伊達郡霊山(りょくぜん/福島市東約十二、三㌖)に顕家は移ります。
伊達郡は伊達行朝の領地で、霊山は深い谷や断崖絶壁に覆われて、守りやすく攻めにくい天然の要塞でした。
山頂には霊山寺があり、千人を超える僧兵に守られています。
その上近くには、南朝に属する十以上の支城もあり、攻撃に対してはまずこれ以上堅固な場所はありません。
しかし顕家としては自分たちの安全ばかりを考えているわけにもいきません。
移って間もない一月二十五日に早くも天皇からの御命令・綸旨(りんじ)が届けられます。
中央の事情を細かく述べた後「急ぎ東国の兵を率いて京都を回復せよ」という御命令でした。
しかしその後の霊山もまた容易でない状態が続いていました。
支城のひとつである熊野堂城(中村町)が相馬胤頼(たねより)により攻め落とされ、さらに信夫郡の荒井城(霊山町北部)、小手保(こてほ)城、伊達郡の河俣(かわまた)城(川俣町)も落城して、霊山は手足をもがれた裸の城同様になっていました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1