おおはたまちができるまで~南部のはなし~61
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく9です。
みちのくの新政09
津軽の兵乱02
この津軽の兵乱の模様は南部師行が、建武元年十二月に津軽降人交名注進状により詳しく顕家に報告をしています。
その報告によると、降伏したものは五十二名で、その中には八戸から逃れてきたと思われる者も数名入っていました。
上尻内の旧領主だった工藤左衛門次郎義村をはじめ、工藤孫次郎兄弟(弟・常光、兄・治郎右衛門貞景は死亡)、そのほか工藤左近二郎子息の孫二郎義継、同じ孫三郎祐継という者の名も見えますが、この二人は新政府により八戸の旧領を安堵された兄弟ですが、どういうわけか津軽に逃れて反乱軍に参加をしています。
この津軽の乱を平定した功により、翌建武二年三月十日、師行に外が浜内摩部郷外、未給の村六ヵ村が与えられています。
これは師行軍を外が浜において、津軽を監視させるためだったのでしょう。
また後に南部氏と縁を結んだ工藤貞行にも、山辺郡二想志(やまべのこおりにそし)郷・田舎郡上冬居郷・鼻和郡目谷郷・外が浜の野尻郷(青森市横内)等が賞として与えられています。
建武元年中に、この津軽の乱は治まりましたので、顕家は師行に命じて建武二年三月二十三日に津軽中を巡視させ、諸豪族たちに
「まず南朝に忠節を尽くすよう、もし従わない者があれば、その罪が問われるだろう。」と申し渡させています。
また初めに大光寺城を攻めた曽我光高は、功績があったにもかかわらず、先祖伝来の領地(平賀・岩楯・沼楯)が安堵されず、建武元年六月には、沼楯が他人(安保弥五郎入道)に与えられたので、「弓箭の家の面目を失くした」と、その不満を国府に訴えています。
国府はその訴えにより、翌年三月二十五日に改めて貞光(光高の改名)に、法師脇郷の内野辺左衛門五郎跡と、旧領の沼楯村ほか柏木郷を賞として与えました。
しかし貞光としては旧領の全部でなかったので、国府に対しての不満は解消されなかったのでしょう。
やがて足利尊氏が勢いを得るようになってからは、この貞光は北条側に味方をして、南部氏を攻撃したりするようになります。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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