こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~102

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

足利氏の内乱のスキをついて動き出した南朝軍は…。

 

そのころの中央情勢(Ⅲ)

多賀国府の奪還(1)

 この北朝方の内乱が東北の政局にも影響しないはずはありません。

 六年前の正平元年に石塔義房に代えて二人の奥州探題を任命し、そのうちの一人畠山国氏は師直派で、もう一人の吉良貞家は直義の支持派でした。

中央の対立が影響して、この二人の争いはついに正平六年一月九日に爆発しました。

 

 兵力では吉良方の方がはるかに畠山方より勝っていました。

二人の最後の戦いは仙台市の北東、岩切城(東北本線岩切駅付近)と、多賀城市にある新田城で行われましたが、二月十二日にはついに両城とも陥落し、畠山国氏とその弟直泰(なおやす)は自害してしまいました。

 

 そのころ鎮守府将軍顕信は滴石城にいましたが、前に宇津峰城にいて宇津峰宮とよばれていた守永親王は出羽に逃れていました。

両探題が激戦を続けていたころ、早くも宇津峰宮は奥羽各地の武将たちに呼びかけて南朝方に協力するよう要請しました。

この呼びかけに応じて、伊達一族の宗遠(むねとお)や、田村一族の者がかけつけて、顕信の次男・守親(もりちか)指揮のもとに、宇津峰城を奪い返し、そこに南朝軍が集結しました。 

 

 一方滴石の顕信は、南部氏一族(宗家十一代・信長)や比内(秋田県大館市)の浅利一族、仙北郡の和賀行義滴石一族などを率いて、秋田県横手から雄勝峠を越えて山形方面に南下をしました。

これは吉良勢の兵力分散を狙う牽制策でした。

それを知らずに吉良貞家は、弟貞常を総大将として、三月初めに山形に軍を派遣しました。

両軍は山形で遭遇戦を行いましたが、顕信は一進一退を続け、四月から五月までも戦を長引かせました。

そうしている間に顯信は使いをやり、宇津峰城に集結した南朝軍に北上を命じました。

 

 宇津峰軍は途中十月二十二日柴田郡船迫(現・柴田町)で相馬軍などを破り、最後は仙台市を流れる広瀬川原で決戦が行われました。

その結果吉良方が敗れ、福島県海道方面に逃れました。

顯信は待望の多賀の国府を奪還し、正平七年の正月を国府で迎えました。

 

 しかし北畠親房の大計画はあくまでも鎌倉にいる尊氏の打倒を目指していたのです。

なのでその後まもなく親房の命により、宇津峰宮や顯信軍は、その鎌倉攻撃に向かいました。

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 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

 つづく

 

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