おおはたまちができるまで~南部のはなし~99
お世話になっております、しょう3です。
尊氏にとって宿敵ともいえる南部政長が亡くなり、ほぼ北朝方の尊氏に軍配が上がりつつあった状況下の中、はたしてその足利方はどんな状況だったのでしょうか。
そのころの中央情勢(Ⅰ)
足利氏の内乱(1)
そのころ京都では、足利氏一族と重臣の高師直も加わって、北朝方の内乱で、親子兄弟の争いが起こっていました。
南部政長が亡くなる二年前(正平三年/1348)、四条畷の合戦で楠木正行(まさつら)を破った高師直は勢いに乗じて吉野を攻め、行在所(あんざいじょ)をはじめ寺院までも焼き払ってしまいました。
後村上天皇はやむなく、吉野の山奥、賀名生(あのう)に難を避けられ、南朝の勢力がすっかり弱まってしまいました。
これで北朝としては、当分の間南朝方から攻められる心配がなくなりました。
安心した足利方では、これまで互いに持っていた不満が爆発して、たちまち幹部の間で内乱がはじまってしまいます。
●ふだんから高慢な師直を憎んでいた直義は、兄尊氏に頼んで師直を執事*1から解任。
●正平四年八月十五日、腹を立てた師直は突然兵を起こし、直義の邸を攻撃。直義は尊氏宅に逃れ、師直は尊氏の邸を取り囲む。
●急な展開だったため尊氏は仕方なく師直の要求を入れ、直義を退けて出家させ、さらに直義の執事であった上杉重能(しげよし)、畠山直宗(ただむね)を越前(福井県)に流す。
●同年十二月、師直は人をやってその重能と直宗を殺害。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
*1:家事や政治を取り仕切る役目